純粋経験論〜経験論を究める

(旧 四畳半大学 宮国研究室)

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<最新記事:2018.7.16[月]>

明証性に関する誤解/「錯覚に基づく論証と世界の喪失」という誤解


三谷尚澄著 「マクダウエルはセラーズをどう理解したのか? : 「みえるの語り」の選言主義的解釈をめぐる一考察」『人文科学論集. 人間情報学科編』44、信州大学、2010年、1〜20ページ

・・・に関して、

「みえるの語り」の誤謬

の記事で、既に指摘したことであるが、三谷氏の見解には「明証性」に関して誤解がある。

 人は、外界に関する知識においては誤るかもしれないが、みずからの内的状態の直接的気づきに関しては誤 りえない。「私はいま暖炉のそばに座って赤い火をみている」という外的世界に関する言明は誤っている可能性がある。対して、「私はいま暖炉のそばに座って赤い火をみているように思われる」という言明はどうか。 前者に対しては、「あなたのみている火は本当は赤くないかもしれない」という疑問が正当に突きつけられうる。しかし、後者の言明に対し、「あなたのみている火は本当は赤くみえてはいない。赤くみえるようにみえているだけなのではないか」という疑念を呈しても、この問いは意味をなさないであろう。「みえるという操作子は、繰り返そうとすると崩れる」性質を有しているのである(Brandom[1997]: ref.)。
 セラーズの用語を用いるなら、上記の分析を通じてデカルトは「現れ」をめぐる「みえるの語り looks-talk」 と「実在」をめぐる「であるの語り is-talk」の間にある明快な順序を導入している。われわれは「みえるの語り」によって表現される「現れ」を直接的に、非推論的に知るのであるが、外的な実在世界のあり方に関する 知識は、「現れ」を出発点とした一連の推論を通じて可謬的に獲得される、という認識論的順序である。
(三谷氏、4ページ)


・・・三谷氏は指摘しておられないが、こういった見解には別の問題がある。

「あなたのみている火は本当は赤くみえてはいない。赤くみえるようにみえているだけなのではないか」という疑念を呈しても、この問いは意味をなさないであろう。


・・・そうではない。明証性を有する事実とは、

・何かが見えたこと
・それを「赤い」と呼んだこと

・・・つまり視覚的経験と言語とが繋がった、視覚的経験を言語表現したことなのであって、「赤くみえる」という”判断”そのものは疑うことができるのである。

 
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私たちが錯覚しうるということも経験によって明らかになること


錯覚に基づく論証と世界の喪失」(三谷氏、4ページ)も、まったくの誤解としか言いようがない。

ここで問題となるのは、「みかけ上のみること」が「真実であるメンバー」と「真実でないメンバー」の両方を含む上位集合として想定されている、という図式は、この上位集合に含まれる二種類の経験の内容をわれわれは区別することができないかもしれない、という含意をもつことである。 (三谷氏、5ページ)


・・・これは事実関係をゆがめてしまう分析方向である。これは経験と経験との関連づけを(実際に私たちがしているという事実を)全く無視した上で、経験を個別に引き離し、集合論という別論理を挿入することでパラドクス的に見せかけているだけである。

 少なくとも、真実のみることのうち、まやかしのみることと経験的に区別できないケースが存在しうる以上、われわれの経験的入力 experiential intake は両方の場合において同一であると想定する必要があるであろう。また、「みること」が「真実のみること」ではないケースの場合、経験の内容が世界の客観的事実に届いているということはできないのだから、経験的入力の内容だけからその経験が事実であると確証することはできない。ところが、厄介なことに、真実のみることに関してもこの点については事情は同様なのである。つまり、経験的入力だけに依拠した形で、「みかけ上のみること」が真実の経験であると確証することはでき ない(「まやましのみること」と共通の内容がもたれているのだから)。「みかけ上のみること」が「真実のみること」を構成する(つまり「真なる信念・知識」を産出する)場合でさえ、「最高次の共通要素 the highest common factor」としての「みかけ上のみること」に依拠していたのでは「経験が真であること」を確証できないのである。(McDowell[1982]: 386) (三谷氏、5ページ)


・・・これも全くの誤解である。私たちが錯覚しうる、判断を間違いうる、それもやはり経験によって明らかになることではないのか?

既に述べてきたことであるが、ある時、そのものを見て「リンゴだ」と思ったが、もう一度近づいて詳細に観察したり触れたりして、それが木やらプラスチックで精巧に作られた模造品であったと気づくことがあるかもしれない。そういった経験を積み重ねることで、人は見間違いをする可能性があることを「経験則」として知っていくのではないのか?

あるいはそういった判断間違いの可能性を、人から聞いたり、本で読んだりして知ることもあるだろう。そういった経験則を知っていればこそ、一度「リンゴだ」と思ったとしても、ひょっとしてそれが間違いであるかもしれない、ともう一度、あるいは何度もそのものを観察しなおしたり、触れたり、持ってみたり、食べようとしてみたり、そういう確認作業につながるのである。

つまり、上記マクダウェルや三谷氏の「真実とまやかし」を「経験的に区別できない」という見解は、全くの誤解であるのだ。

付け加えれば、それらの確認作業の根拠となる知識も、やはり経験の積み重ねにより獲得されたものなのである。「経験の領域には求められえない」(三谷氏、5ページ)「経験の真理条件は経験の外部へと追放されてしまった」(三谷氏、5ページ)という見解も同様に、全くの誤解であるとしか言いようがない。

我々の経験が、”「打ち負かされる可能性のある知識の根拠 defeasibile ground for knowledge」しか提供できない”(三谷氏、5ページ)というのは当たり前の話である。そもそもそうでない「絶対的真理」というものがある保証がどこにあるのか?

科学的知識にしても、論理学にしても、究極的にはそういったものなのである。

われわれは経験の内部から世界の側につながる橋をかけることができないが、われわれには経験の内部にしか利用できる材料がない。こうして、われわれの心は不可避的に「世界を喪失する」。「錯覚に基づく論証」から、「世界を失うというデカルト的な脅威」が帰結するのである。(三谷氏、5ページ)


・・・これもどうしたらこういう結論になるのか? 経験の因果的分析により「世界」というものが根拠づけられている、経験の積み重ねにより、判断の間違いを訂正しながら、絶対的真理とは言えないが、世界というものを構築しているのである。

私たちが判断ミスをしうることと、「世界を喪失する」ということとは全く別の事柄、そもそも「世界を喪失する」とはいったいどういうことなのか? 言語能力が阻害されているとか、因果関係把握が難しいとか、そういった具体的能力の喪失の可能性というのであれば、話は分かるのであるが・・・

いずれにせよ、マクダウェルや三谷氏の論理は、具体的経験の事実とは全くかけ離れた、妄想的論理でしかない。「経験」というものを恣意的に捉え、経験に裏付けられていない「論理」を挿入することで、パラドクスがあるかのように見せかけているだけなのである。

 
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