純粋経験論〜経験論を究める

(旧 四畳半大学 宮国研究室)

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<最新記事:2018.9.18[火]>

経験が判決を返すのではなく、判決を下したことが経験


「知覚の哲学」における議論の前提、あるいは議論の方向性に問題点があるのでは、「知覚の哲学」において立てられている問題意識・問いそのものが有効なのか、そのあたりきっちり分かってもらえるように説明していきたい。

三谷尚澄著 「マクダウエルはセラーズをどう理解したのか? : 「みえるの語り」の選言主義的解釈をめぐる一考察」『人文科学論集. 人間情報学科編』44、信州大学、2010年、1〜20ページ

・・・を再び読み始めた。

1.経験が判決を返すのではなく、判決を下したことが経験



そもそも、経験がわれわれの思考に対してなんらかの判決を返すことが可能であるのはいかにしてなのか。(三谷氏、3ページ:マクダウェルからの引用)


・・・そもそも「経験」とは何なのか? 説明しようがないのであるが、経験していることが経験なのである。「知覚の哲学」の議論において「経験」とは何か厳密に検証されていないのだ。

要するに、判決を下したこと、それ自体が経験なのである。そしてさらに厳密に検証すれば、「判決を返す・下す」とは具体的にいったいどのような経験なのか、そこが問題なのではないのか?


2.順番に起っている出来事を、並列的に並べて比較している



まず、次のような二つのケースを考えてみよう。(a) 目の前に赤いリンゴがみえていて、その経験は真実である。(b) 目の前に赤いリンゴがみえているが、その経験はまやかしである(リンゴば巧妙な模型であるか、幻覚がみえている)。これら二つのケースをわれわれが実際に混同することがある、という事実は、われわれの経験(目の前にリンゴがあると知覚すること)は知覚者をだますdeceptive ことがある、あるいは、誤っている可能性があるfallible ということを含意している。(三谷氏、4ページ)


・・・こういった分析方法が、具体的経験の事実からかけ離れているのである。具体的には、そのものを見て「リンゴだ」と思った事実があり、たとえば次の日にもう一度じっくり観察してみたら”巧妙な模型”であると気付いたとすれば、まずは「それはリンゴである」が「正しい」事実把握となっており、次の日にはそれが覆され「それはリンゴに模した巧妙な模型である」が「正しい」事実把握となる。もちろん他の人に教えてもらうことで気づく場合もある。その場合においても、結局「正しい」事実把握というものが入れ替わった、ただそれだけのことなのだ。

(本ウェブサイトにおいて)何度も繰り返していることであるが、(a)と(b)を並列的に比較する分析方法は、具体的分析から離れ、パラドクスを導く誤謬なのである。


3.「概念」という用語で経験が見えなくなっている、実際の経験から離れた分析になっている



こちらで既に説明したことであるが、出発点において、既に明証性と事実把握の「正しさ」との混同が見られるのである。

後日、詳しく説明するつもりであるが、8ページのジョンの事例においても、ジョンが実際に外に出てネクタイを見て、それが「青いネクタイ」なのかどうか確認する作業が恣意的に無視されている。ジョンがその客のことを盲目的に信用しているのであれば別であるが、ジョンが実際に「これは青いネクタイです」と客に説明できるのは、実際に自分で確かめ、本当にそうか確認してからであろう。

そもそも「緑にみえるという概念」(=あるものが緑にみえることを認識する能力:三谷氏、8ページ)、「緑であるという概念」(三谷氏、8ページ)とはいったい何なのか?

・・・結局のところ、視覚経験と「青」やら「緑」という言葉との繋がりでしかないのである。そこのところに”能力”とか”概念”とかいうものが、どこに現れているのであろうか?


4.「みえる」と「である」の順序の逆転には一理ある部分もある



セラーズによれば、「事態の核心」は「『〜とみること』は経験的記述以上のものを含んでいる」と認めること(三谷氏、9ページ)


・・・この見解が全く的はずれであるといえない部分もある。どういうことかというと、現れる「経験」というものは、それが「眼で見られている」ということを何も語っていないからだ。

そのあたりのことは、こちらで説明しているのだが、「眼が見ている」、つまり「〜にみえる」という説明は、”私の身体についても報告がなされ、また、どの部分が私の意志に従いどの部分が従わないか等が語られねばならないだろう”(ウィトゲンシュタイン著『論理哲学論考』野矢茂樹訳、岩波文庫、116ページ)という説明がほのめかしているように、「私」の体に関する知識が必要である、「私」がいて「眼が見て」視覚が現れている、という知識が必要である、ということでもあるのだ。

その”知識”も結局経験を因果的に繋げることで導かれるもの、結局は「経験」に辿り着く。ただ、目の前のものを「リンゴだ」と呼んだ、その時点においては、「〜にみえる」という説明は、上記三谷氏の「経験的記述以上のもの」であることは確かにそうである。

ただ、セラーズは「概念」という”架空の”道具を用いて分析しようとしているため、おかしな結論になってしまうのである。

・・・それ以降はまた後日、詳細に分析していきたい。
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