2016年10月の日記


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不確定性で因果関係の必然性の問題は説明できない


永井俊哉氏ドットコム
https://www.nagaitoshiya.com/ja/

にある、

なぜ因果関係は必然的ではないのか
https://www.nagaitoshiya.com/ja/2003/uncertain-causal-connection/

のページが目についたので、その内容を分析してみた。以下、永井氏の見解の問題点である。

 

1.なぜ「動機」の問題になるのか?

原因と結果の結びつきだけでなく、原因と結果の分割自体が主観的であり、その主観的動機を考えるならば、事象を原因と結果に分割した段階で、既に両者の関係は不確定になっていると言うことができる。



・・・永井氏のこの見解は少々ずれてはいないか? 原因と結果の分割が主観的であるとき、なぜその「主観的動機」を考えねばならないのか? ここで「動機」を問う必要がいったいどこにあるのか、ということである。「動機」とは後付けで考えられる(悪く言えばこじつけられる)想定概念である。因果関係の必然性とは全く関係のないものであるといえよう。

そもそもが、「因果関係を認めた」という事実から”必然的”な「主観的動機」というものを導きうるものなのか? あるいは因果関係を認める場合に一般的な主観的動機というものがあると確定できるものなのか?

 

2.「必然性」という言葉の定義があいまいなまま話が進んでいる

ある出来事Cがある出来事Eの原因であるための必要十分条件は何であろうか。デイビット・ヒュームは、CとEが近接していること、CがEに時間的に先行していること、そして最も重要な条件として、CとEの間に必然的な結びつきがあることを挙げている[David Hume:Treatise of Human Nature,1.3.2]。



・・・このヒューム(永井氏?)の説明それ自体、おかしくないだろうか? 必要十分条件である=必然的な結びつきがある、ということなのではないか? 必然的だから必然的なのだ、というでは何の説明にもなっていない。さらには、必要十分条件であると認めるということはいったい何が根拠になっているのか、そこから問われねばならないのではないか?

原因と結果は知覚できるが、原因と結果を結びつけている因果関係を直接知覚することはできない。



・・・これはもっともな話である。私自身、何度もこのことを強調している。

因果結合は主観的だから、必然性はないとするヒュームのこの見解は正しいだろうか。



・・・ここでまず考えねばならないのは、いったい何をもって「必然性」と呼んでいるのか、そこからではなかろうか? 「必然性」という言葉があやふやなまま議論を進めても結論に至ることはできないと思われるのだ。

 

3.一つの事象・出来事のみを見ても「必然性」の謎は解けない

因果関係が主観的とはどういうことなのかというと、ある事象と事象との間に関係があると「認めた」(確信した、そう思った)という事実があるだけ、ということなのだ。

永井氏の議論に欠けていることがあるのだが、

常にそうである、誰が見てもそうである、そういった条件を満たすもの、つまり「科学的客観性」という意味合いでの「必然性」である。

一度だけの因果関係はあくまで主観的な確信である。それが何度も引き起こされること、さらには他の人によっても同様に認められること、そういうことで、その因果関係が必然性を持つ、常にそうなっているという確信がより高められているのである。(ただし絶対的真理に至ることはない)

つまり、個別の事象と事象との関係のみをいくらこねくり回して考えたところで、因果関係の必然性の答えは出てこない、ということなのだ。永井氏は、この”こねくり回し”をしているだけなのである。

 

4.因果関係の問題を、言語表現の問題へすり替えている

原因と結果の結合は、主観的であるがゆえにその必然性が疑われるのではなくて、必然性が疑わしいからこそ、主観は、出来事を原因と結果に分割するのであって、原因と結果の結びつきが必然的になると、原因と結果は、原因と結果ではなくて、一つの出来事になってしまう。



・・・この説明は正直、わけがわからない。

必然性が疑わしいからこそ、主観は、出来事を原因と結果に分割するのであって



・・・とはいったい何を根拠にしているのだろうか? 「必然性が疑わしい」という事実と「出来事を原因と結果に分割する」ことと、その「関係」の「必然性」はどこにあるのか・・・という話になってしまうのである。何度も言うが、永井氏はまず「必然性」とは何か、そこから厳密に説明していく必要があるのだ。そこがないから、本当にそうなのか疑わしい根拠の薄弱な推論・断定の羅列となってしまうのだ。

例を挙げて説明しよう。リモコンのボタンを押すと、それが原因となってテレビ放送の開始という結果をもたらす。しかし、通常、私たちは、この因果連鎖を「テレビをつける」という単一の行為として記述する。では、どのような時にこの行為を二つに分割し、「リモコンのボタンを押すと、テレビがつく」というような因果関係として記述するのだろうか。



・・・因果関係の問題が単なる言葉表現の問題にすり替えられてしまっている。「リモコンのボタンを押す」というのも一つの出来事であるし、「テレビがつく」というのも一つの出来事である。それら一連の出来事をまとめて「テレビをつける」と表現することもできる。そして、それぞれの言語表現に対し、それぞれの出来事・事象(あるいは経験)があるのも事実なのである。因果関係に「必然性」があろうとなかろうとそれぞれの表現が可能なのである。

このとき、なぜ「テレビをつける」という表現を選んだのか、あるいは「リモコンのボタンを押す」「テレビがつく」という表現を用いたのか、その「理由」が「因果関係」の問題と関連するという根拠はいったいどこにあるのだろうか?

永井氏は根拠のないストーリー構築、根拠のない断定をされているだけなのだ。問題は言葉で示された出来事と出来事、事象と事象との関係なのである。文章表現の問題なのではない。

 

5.不確定性の縮減は因果関係の必然性の説明になっていない

永井氏の見解は結果として、「細かく因果連鎖へと分解」することで不確定性という一種の”指標”が縮減する、というところまでしか説明できていないのである。

では、その因果関係の連鎖の必然性を担保するものは何なのか、永井氏はそこにまったく答えていない。因果関係をいくら細分化しても、結局それら個々の因果関係の必然性とはいったい何によって根拠づけられているのか? その説明がまったくないのである。

因果関係を細分化すると、より詳細なメカニズムが分かるようになる、永井氏の言われる不確定性という”指標”の縮減は、より詳細なメカニズム把握と対応している、そこまでは説明可能であろう。しかし、最初に問題とされた因果関係の必然性の問題が置き去りにされてしまっているのだ。

 
(2016.10.20[木])

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