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ヒューム



ヒューム『人性論』分析:「関係」について http://miya.aki.gs/miya/miya_report21.pdf
・・・ヒューム著、土岐邦夫・小西嘉四郎訳『人性論』(中央公論社)における「関係」に関する分析です。経験が(経験則としての)知識として成立する際に「関係」というものは避けて通れません。経験どうしの「関係」とはいかなるものなのか、「関係」を経験論として説明するとはどういうことなのか、ヒュームの見解を批判的に検証することで明らかにしています。

ヒューム『人性論』分析:記憶と想像の違いとは? http://miya.aki.gs/miya/miya_report27.pdf
・・・ヒューム著、土岐邦夫・小西嘉四郎訳『人性論』(中央公論社)分析の続編です(前編はこちら)。因果関係を構成する印象・観念における、記憶の位置づけ、記憶と想像との違いについてのヒュームの説明の問題点を明らかにし、いかに修正すれば実際の具体的経験と齟齬なく説明できるのか論じています。

ヒューム『人性論』分析:「信念」について http://miya.aki.gs/miya/miya_report28.pdf
・・・ヒューム著、土岐邦夫・小西嘉四郎訳『人性論』(中央公論社)分析の続編、「信念」に関するものです。ヒュームは「印象⇒観念」という枠組みに固執するあまり、信念の問題における情念・情動的感覚の位置づけを見誤っている、そのため信念とは何か正確に説明できなかったと言えます。そもそも信念の問題は、「印象⇒観念」という枠組み、あるいは観念の「勢いや活気」というもので一律に説明できるようなシンプルなものではありません。

ヒューム『人性論』分析:「同一性」について http://miya.aki.gs/miya/miya_report29.pdf
・・・ヒューム著、土岐邦夫・小西嘉四郎訳『人性論』(中央公論社)分析の続編、「同一性」に関するものです。ヒュームは同一性も「知覚」であると説明しているにもかかわらず、一方で「万物は流転する」のような哲学的常識に縛られ、印象は常に変化・消失し、同じものは現れないという"思い込み"を取り払えないまま同一性について説明しようとして袋小路に入り込んでいるように思えます。
 しかし、私たちが「同じだ」と思うのは、ただ"端的に"そう思うのであって、「違う」「変化した」と"端的に"思うのと同じことなのです。

ヒューム『人性論』分析:「存在」について http://miya.aki.gs/miya/miya_report30.pdf
・・・ヒューム著、土岐邦夫・小西嘉四郎訳『人性論』(中央公論社)分析の続編、「存在」に関するものです。存在に関しては、「存在の観念は、存在しているとわれわれが思いいだくものの観念とまさしく同じもの」というヒュームの言葉が既にその解答になっているように思えます。存在の有無(に対する信念)は究極的には知覚の有無にたどり着く。
 しかし、存在の信念の「原因」を問う過程でヒュームは思考の袋小路に入ってしまったように思えます。因果関係、そして同一性・恒常性に関するヒューム自身の誤解が、説明を混乱させているのです。

ヒューム『人性論』分析:経験論における「経験」の位置づけについて http://miya.aki.gs/miya/miya_report31.pdf
・・・ヒューム著、土岐邦夫・小西嘉四郎訳『人性論』(中央公論社)分析の続編です。ヒューム理論における「経験」の位置づけ、「経験⇒原理⇒観念」という分析フォーマットの問題点を指摘するものです。経験がいかに知識や関係(の観念)をもたらすのかではなく、知識や関係そのものがいかに経験として現れているのかを示すことが経験論なのであって、それらをもたらす「原理」「原因」を問うたところで、一元的な回答を得ることなどできないのです。

言葉の意味は具体的・個別的経験(印象・観念)としてしか現れない
  〜萬屋博喜著「ヒュームにおける意味と抽象」の批判的分析
http://miya.aki.gs/miya/miya_report22.pdf
・・・萬屋博喜著「ヒュームにおける意味と抽象」(『哲学』第63号、日本哲学会、知泉書館、2012年4月、297〜311ページ)の批判的分析です。萬屋氏は、ヒュームの示した経験論の手法を無視した上で、ヒュームの見解が私的言語批判を免れていることを証明するためにヒュームの説明を恣意的に引用・解釈しようとしているように思えます。そうではなく、経験論の手法に基づきヒュームの文章を検証した上で、私的言語批判そのものが無効であることを示す必要があるのだと思います。

人性論(1)(2)(3)(4)(5)(6)(7)(8)(9)

一ノ瀬正樹著「原因と結果と自由と」(1)(2)

藤井誠著「因果律について : ヒュームとカント」(1)(2)

春日亮佑著「ロックの『人間知性論』における観念の知覚」(1)(2)

永井俊哉著「なぜ因果関係は必然的ではないのか」(1)



西田幾多郎



西田幾多郎著『善の研究』分析/(第一編第一章:PDF)(第一編第二章:PDF)(第一編第三章:PDF)(第一編第四章:PDF)
・・・西田哲学のオリジナリティーは『善の研究』第一編に集約されると思います。思惟や意志、知的直観でさえも純粋経験であることを示そうとしたこと、それが成功しなかったとはいえ、最も重要な部分だと思っています。

「統一的或る者」批判 〜西田幾多郎著『善の研究』第二編 実在の分析 http://miya.aki.gs/miya/miya_report26.pdf
・・・『善の研究』第二編 実在の分析です。純粋経験論の立場から言えば、「力」があって事象・現象の推移があるのではなく、現象・事象の推移がまずあって、そこから「力」というものが仮想されているということなのです。「力」を実体化しそれを経験の根拠づけに用いてはならない、「力其物」(さらには「作用其物」「意志其物」)というものは純粋経験として現れることがないからです。しかし西田は「統一的或る者」「統一力」という仮想概念により純粋経験を説明しようとしています。

純粋経験の主客未分とは単なる経験の事実、フィクションを用いた思考実験で検証する事柄ではない
〜森岡正博著「人称の存在しない世界 「主客未分」再考 」分析
http://miya.aki.gs/miya/miya_report7.pdf
・・・森岡正博著「人称の存在しない世界 「主客未分」再考 」 季刊『仏教』no.8、 1989年7月、119〜126ページ(http://www.lifestudies.org/jp/ninsho.htm )の分析を通して純粋経験の主客未分とは何なのか明らかにしています。2016年に書いたレポートを大幅修正したものです。

来栖哲明著「西田幾多郎『善の研究』における純粋経験について」分析 http://miya.aki.gs/miya/miya_report10.pdf
・・・来栖哲明著「西田幾多郎『善の研究』における純粋経験について」『山口大学哲学研究』16巻(2009年)1〜18ページ(http://petit.lib.yamaguchi-u.ac.jp/G0000006y2j2/file/16965/20101213090347/C070016000001.pdf)を分析しながら、純粋経験とは何かについてより詳細な説明を加えたものです。時間や思考とは何か、ということについても論じています。

「場所の論理」は純粋経験からの逸脱、西田哲学の後退である http://miya.aki.gs/miya/miya_report9.pdf
・・・満原健著「西田幾多郎による志向性理論批判」『フッサール研究』第12号(2015)51〜65ページ(http://www2.itc.kansai-u.ac.jp/~t980020/Husserl/Vol_12_2014/04_Mitsuhara.pdf)を分析したものです。西田幾多郎、そしてフッサールの方法論のブレ・基本的原理からの逸脱が恣意的仮説の積み重ねを生み出していることを指摘しています。

神尾和寿著「「純粋経験」の言語化の可能性と必然性をめぐって」(1)

小坂国継著「二つの弁証法──ヘーゲルと西田幾多郎」(1)(2)(3)



ジェイムズ



純粋経験には「意識」も「思考」も「作用」も「証人」もない
〜「意識」は存在するのか(W.ジェイムズ著)の批判的分析
http://miya.aki.gs/miya/miya_report12.pdf
・・・W.ジェイムズ著・伊藤邦武編訳『純粋経験の哲学』(岩波文庫)第一章「意識」は存在するのか(9〜45ページ)の分析です。純粋経験に関するジェイムズ理論の問題点を指摘した上で、実際の具体的経験・純粋経験に基づき意識・思考、さらには「作用」とは何なのかを明らかにしています。



ウィトゲンシュタイン



「語りえない」ものとは? 〜 野矢茂樹著、ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む、第1〜3章の分析
http://miya.aki.gs/miya/miya_report35.pdf
・・・野矢茂樹著、ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む(筑摩書房、2006年)の第1章から第3章まで(最初〜74ページ)の分析です。
 野矢氏(とウィトゲンシュタイン)は、「思考」とは何か明確でないまま「思考の限界」について議論しようとしており、そのため思考の限界と言語の有意味性の問題が混同されてしまい論理が錯綜しているように思えます。さらに事態、事実、対象、命題、名、像といった用語の位置づけが私たちの実際の具体的経験と齟齬をきたしているため、言葉(論理も言葉です)の有意味性の問題を正確に分析できていないのではないでしょうか。
 本稿ではこれらの用語を、私たちの実際の具体的経験に沿った形で捉えなおした上で、「語りえない」ものは「論理」ではなく「言葉と事態・事実との繋がり(対象と名との繋がり)」であることを明らかにしてくものです。

言語使用のあり方は言語外の対象によって決められる
〜ラッセルのパラドクスに関するウィトゲンシュタインの解明について
(野矢茂樹著『ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む』第4章の分析)

http://miya.aki.gs/miya/miya_report36.pdf
・・・野矢茂樹著、ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む(筑摩書房、2006年)の第4章(75〜99ページ)の分析です。主な論点は下のとおりです。
・ウィトゲンシュタインの解明は(ウィトゲンシュタイン自身、あるいは野矢氏の説明とは異なり)実質的に「言語外の対象」が前提となっている(ただそれを無視しているだけ)。有意味な論理空間(有意味な言語表現)かどうかは、言葉の対象として事実・事態が現れうるのかどうかで決まるからである。
・命題の有意味性を前提にしているため(=実質的に言葉と対象の関係を前提としているため)、結果としてウィトゲンシュタインは、ラッセルのパラドクスが言葉と対象との関係を歪めたために生じていることを明らかにすることができている。
・しかし(野矢氏の説明による)ウィトゲンシュタインにおける可能世界とは、時に実現可能性であったり時に想像(空想)可能性であったりというブレが見られる。

論理空間とは何なのか 〜野矢茂樹著『ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む』第8章「論理はア・プリオリである」の分析 http://miya.aki.gs/miya/miya_report41.pdf


主体否定と思考 〜野矢茂樹著『ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む』第10〜11章の分析 http://miya.aki.gs/miya/miya_report42.pdf


論理・倫理・死 〜野矢茂樹著『ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む』第13章「死について、幸福について」に対する若干のコメント http://miya.aki.gs/miya/miya_report43.pdf




カント



“ア・プリオリな悟性概念”の必然性をもたらすのは経験である〜『純粋理性批判』序文分析 http://miya.aki.gs/miya/miya_report20.pdf
・・・『純粋理性批判』(カント著、篠田英雄訳、岩波書店)の序文の分析です。カントの言うア・プリオリというものが実のところ経験によって「必然性」を与えられているものであること、つまりア・プリオリ自体が無効であることを説明するものです。序文(と少し緒言も)のみの分析ですが、カント理論における根本的問題の指摘はできていると思います。(※ 後日、緒言分析も付録として追加しました)

寺尾隆二著「カントとヒューム―カントの『ヒューム超克』をめぐって―」/(1)



現象学



「超越論的現象学的な自我」は幻想
〜『デカルト的省察』第一省察「超越論的な我への道」の批判的分析
http://miya.aki.gs/miya/miya_report45.pdf


「本質」という倒錯:竹田現象学における「本質観取(本質直観)」とは実質的に何のことなのか http://miya.aki.gs/miya/miya_report37.pdf
・・・竹田現象学における「本質観取」「本質直観」とは実質的に何を示しているのか、どういった意義を有するのか、竹田青嗣著『現象学入門』(NHKブックス、1989年)を分析しながら具体的に説明しています。
 そもそも「理念」「本質」というものが実際に具体的経験として現れているのか、竹田氏の”経験観”に対しても疑念を抱かざるをえません。ただ、竹田氏による「本質観取(直観)」に関する見解は、真理、そして言葉の意味について二つの重要な論点を明らかにするという意義も有しています。



社会学:M.ヴェーバー



価値・理念について議論するとはどういうことなのか 〜「なんのための」社会学か? の批判的検証を中心に http://miya.aki.gs/miya/shakaigaku1.pdf
・・・西研氏のウェブサイト( http://www007.upp.so-net.ne.jp/inuhashi/ )中に掲載されている論文、「なんのための」社会学か? ( http://www007.upp.so-net.ne.jp/inuhashi/nan.htm )を批判的に検証しながら、同時に『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』(マックス・ヴェーバー著、富永祐治・立野保男訳、折原浩補訳、岩波書店)前半部分における問題点(社会科学と価値・理念との関係)を明らかにするものです。 (さらに同時に、竹田現象学における”欲望相関性””関心相関性”の間接的批判になっていると思います。) ヴェーバー研究で見落とされてきた、盲点かもしれません。

『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』第U部の批判的分析 〜意義・価値理念と事実関係、法則と個性的因果連関、直接に与えられた実在と抽象に関するヴェーバーの誤解 http://miya.aki.gs/miya/miya_report23.pdf
・・・『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』(マックス・ヴェーバー著、富永祐治・立野保男訳、折原浩補訳、岩波書店)第II部(55ページ以降)、因果関係・法則に関するヴェーバーの見解、そして理念型に基づいたヴェーバーの方法論の問題点を指摘するものです。



社会学:その他



規則が意味を成り立たせているのではなく、言葉の意味(言葉に対応する具体的経験・事象)がまずあって規則はそこから見出される:ヴィトゲンシュタイン的言語観への批判 〜 橋爪大三郎著『「心」はあるのか』分析 http://miya.aki.gs/miya/miya_report25.pdf
・・・橋爪大三郎著『「心」はあるのか』(ちくま新書)の分析を通じて、橋爪氏の(さらにはヴィトゲンシュタイン的な)言語観の問題点を指摘するものです。経験の前に論理があるのではない、論理というものは経験から導き出されるものなのです。

自己言及はパラドクスではない 〜 ニクラス・ルーマン著・土方透/大沢善信訳『自己言及性について』(ちくま学芸文庫)、「訳者あとがき」(土方透著)の問題点 http://miya.aki.gs/miya/miya_report18.pdf
・・・ニクラス・ルーマン著・土方透/大沢善信訳『自己言及性について』(ちくま学芸文庫)、「訳者あとがき」(土方透著)における問題点を指摘したものです。具体的事象の関係を抽象概念どうしの形式論理的関係にすり替えることで、あたかもパラドクス・循環があるように見せかけているだけ、具体的に事実を検証すればそこにパラドクスなどどこにもないことが明らかになると思います。

泉谷洋平著「行為の自己言及性と時空―人文地理学者のアンソニー・ギデンズ理解をめぐって―」(1)
・・・「規則のパラドクス」は単なる経験則をア・プリオリと取り違えたことから生じるものです。



推論主義


・・・言葉の意味とは何かという問題と、事実把握の客観性の問題とが混同されているために生じた見解だと思います。


島村修平著「推論主義の独自性と意義―意味理解と外在主義の観点から―」(1)



「知覚の哲学」の問題点


・・・そもそも「真理」とは何かという問題が置き去りにされたまま議論がなされています。明証性と事実認識の「正しさ」とが混同されているし、「心」やら「意識」とは何なのか、心の内・外の区別とは何なのか説明されないままただただ前提されています。実際に現れている具体的経験がいかなるものかについてはおかまいなしに、想定された一定のシチュエーションにおける知覚のみが経験ということになってしまっています。これらの議論で用いられている用語そのものから検証しなおす必要があると思われます。


三谷尚澄著 「マクダウエルはセラーズをどう理解したのか? : 「みえるの語り」の選言主義的解釈をめぐる一考察」
三谷尚澄著「経験論の再生と二つの超越論哲学 -セラーズとマクダウエルによるカント的直観の受容/変奏をめぐって」

(PDFファイル:「経験とは?経験論とは?」)

村井忠康著「知覚と概念―セラーズ・マクダウェル・「描写」―」(1)(2)(3)

小口峰樹著「知覚経験の選言説と概念説」(1)(2)(3)(4)(5)

小口峰樹著「知覚は矛盾を許容するか?」(1)(2)

川瀬和也著「ヘーゲルにおける概念の客観性と「所与の神話」」(1)

荒畑靖宏著「経験と世界への開け ――マクダウェルの「最小限の経験主義」のための 存在論的前提――」(1)(2)

入江幸男著「内在的基礎づけ主義とドイツ観念論」(1)

横山幹子著「「錯覚からの議論」と選言説」(1)

小草泰著「知覚の志向説と選言説」(1)(2)

護山真也著 「仏教認識論と〈所与の神話〉」(1)(2)



科学哲学・論理学関連



A→Bが「正しい」とはどういうことなのか 〜真理(値)表とは何なのか http://miya.aki.gs/miya/miya_report40.pdf


命題を(論理学的)トートロジーと決めつけた上でA→Bの真理値を逆算するのは正当か? http://miya.aki.gs/miya/miya_report39.pdf


選言の真偽とはいったい何なのか:(¬A∨B)≡(A→B)に根拠はあるのか http://miya.aki.gs/miya/miya_report38.pdf
・・・選言(A∨B)の真理値とは何か、論理学的真理値設定に根拠はあるのか、ということについて考察しています。選言の真理値はそれぞれにおける特定の前提があってはじめて現われるもので、しかもその前提により様々な値をとります。論理学では機械的に特定の真理値をあてがいますが、実際にそんなことが常に通用するわけではない、その論理の真偽が成立するための前提・シチュエーションにより事情が異なってくるのだ、というのが結論です。

ラッセルのパラドクスに関して:「二階の述語論理」の問題点 http://miya.aki.gs/miya/miya_report34.pdf
・・・本稿は野矢茂樹著『論理学』(東京大学出版会、1994年)におけるラッセルのパラドクスに関連する論理の問題点を指摘するものです。
 二階の述語論理というものを構築するにあたって、「述語」あるいは「集合」という"言葉"を実体化させ、別の意味を与えて要素化するという、余計なプロセスが入り込んでいるためにパラドクスが生じてしまっている面があるのではないでしょうか。
 犬の集合は犬であって、犬が集合したからといって犬とは別のもの(述語や集合という”概念”)に変化するわけではありません。
 そして論理と現実とを突き合わせて齟齬が生じたのならば、変更を加えるべきは論理の方なのです。論理はあくまで現実世界の在り方、そしてそれに対する人々の一般的認識に根拠づけられているのですから。

実質含意・厳密含意のパラドクスは、条件文の論理学的真理値設定が誤っていることの証左である http://miya.aki.gs/miya/miya_report33.pdf
・・・実質含意のパラドクス・厳密含意のパラドクス、あるいはそれに伴う(池田氏の言われるような)"違和感"は、条件文における論理学的真理値設定、とくに前件が偽ならば後件が真でも偽でも全体として真となってしまう設定それ自体に誤りがあることからもたらされている部分があるのではないでしょうか。
 本稿では、池田真治著「哲学演習「論理学入門」補論」(2016年)を参考にしながら、実質含意、厳密含意、伴立について分析し、条件文の真理値についてより詳細に考察しました。

条件文「AならばB」は命題ではない? 〜 論理学における条件法の真理値設定の問題点 http://miya.aki.gs/miya/miya_report32.pdf
・・・『数学にとって証明とはなにか』(瀬山士郎著、講談社)を読んで、もともとあった条件文への違和感がさらに強まってしまったので、本稿でその問題点をまとめてみました。前件が偽ならば後件が真であれ偽であれ全体として真になるという、条件法の論理学的真理値設定が普遍性を持つという根拠をどこにも見いだせない、そしてその論理学的真理値設定が本当にトートロジーと呼べるのか疑わしい論理を生み出していることを指摘しています。論理学の専門家の方々からのご意見もいただければ幸いです。

理論があって経験があるのではなく、経験があって理論がある
〜「観察の理論負荷性」の問題点
http://miya.aki.gs/miya/miya_report24.pdf
・・・科学哲学における「観察の理論負荷性」に関する議論の問題点を指摘したものです。具体的には@「観察」という行為における言語と経験との位置づけに関する誤認、A理論あるいは因果関係とは何か、経験におけるそれらの位置づけに関する誤認、という論点から分析しています。理論(因果)とはアポステリオリなもの、経験がまずあって理論はそれら経験の事後的因果構築により導かれるものなのです。

ピエール・ボネールス、森永豊著「大森荘藏の論理学の哲学 : 論理学における必然性とその経験的性格」(1)(2)
・・・経験論を徹底できないからプラグマティズムに陥るのだと思います。

ytb氏「意義と公共性 」(1)
・・・「意味の使用説」が見逃したもの。

ミック氏「心理主義批判――言葉の意味は心的イメージではない」(1)

シノハラユウキ氏「クワイン「経験主義の二つのドグマ」(現代哲学)」(1)



その他



入不二基義著「現実の現実性と時間の動性」(1)(2)

御坊哲氏「禅的哲学」(「析空観と体空観」「 言葉は浮遊する(2)」)(無常と空 その1)

ウィトゲンシュタイン著『論理哲学論考』(1)