2017年09月の日記


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「客観性」「公共性」というものでさえ、主観的判断、究極的には”経験と言葉との繋がり”へと還元されてしまう


新・あいまいな本日の私
http://ytb-logic.blogspot.jp/

というブログの

意義と公共性
http://ytb-logic.blogspot.jp/2017/05/blog-post.html

という記事で、言葉の意味について論じられているので、分析してみようと思う。

(※ 2018年2月18日、3月14日に文章を一部、3月14日にタイトルを修正しました)

 
 

1.「公共性」「客観性」に関する誤解

フレーゲが「意義」を導入して以降の現代的な言語哲学においては、言語の本質とはその公共性である。もちろんコミュニケーションの場面では、どんなときにでも誤解の余地はある。もしかしたら「コミュニケーションがうまくいっている」という思いは、コミュニケーション参加者の錯覚かもしれない。しかし、人間は、第三者の観察者の目から見て、多くの場面であたかも本当に意思を疎通させているように振舞っているように見える(このことは、数学が自然現象をシミュレートする際に大変有用である事と並んで、哲学における最大の難問の一つであるが、しかし、多くの場合ホントに上手くいっているんだから仕方がない。)。(ytb氏)



・・・明らかにytb氏(当ブログ記事著者)は「言葉の意味」と「言葉を理解することによりもたらされる効果・影響」とを混同してしまっている。また、これでは「客観性」の説明にもなっていない。

@あるものを見て「青色だ」と思うこと
Aある人の行為を見て「あたかも本当に意思を疎通させているように振舞っている」と判断すること

・・・どちらも何かが見えてそれについての何らかの判断を加えた(その見えたものに言語をあてはめて表現した)ことについては全く同じなのである。

結局のところ、「公共性」「客観性」といえども、上記@Aの事例双方ともに、

@人々がそのものを見て「青色だ」と言っている
A人々の行為を見て「あたかも本当に意思を疎通させているように振舞っている」と判断した

・・・という個人的な事実認識によって、主観的にもたらされるものなのである。
ある人が見ればその行為は「分かっている」ように思えたとしても別の人が見たら「分かっていない」と思えることだってありうるのだ。

つまり、ytb氏は

・自分自身がその言葉について理解したと思ったその根拠
・他の人がその言葉について理解したと判断する根拠

の違いを「公共性」と取り違えてしまっている
のである。私たちは、目の前に見えるものを「リンゴ」と呼んでいる。晴れている空を見て「青い」と思う。言葉の「意味」とは、そこに見えているものなのである。「音」と言えば実際に聞こえているものであるし、「香り」は実際に匂っているものなのだ。

それら経験(見えるもの・聞こえるもの・感じるもの)と言葉との繋がりは、突き詰めていけば言葉で説明できないところに行き着く。しかしその繋がりが究極的に言葉で、あるいは論理で説明できないからといって、否定されるわけではないのだ。なぜなら実際に私たちがそういうふうに経験と言葉とを繋げていることは、否定しようのない事実だからである。

本書では、外から見て観察可能な事象、つまりコミュニケーションにおいて意思疎通が成功したように見えるかどうかのみを考慮の対象とする。主観的な人間観では、この多くの場面でなぜコミュニケーションが成立しているように見えるのか、説明できない(もちろん主観的な立場に立てば、自己申告で、「彼女はぜんぜん僕の言うことを分かってくれていない」とか言うこともできるかもしれないが、本アプローチにおいてそんなことは知ったことではない)。(ytb氏)



・・・例えば、Aということについて分かった・理解したのであればその人は当然驚くだろう、という自らの確信がある場合、私がXさんにAについて伝え、Xさんが実際驚いたのだとしたら、「XさんにAということについて理解してもらえた」と判断するであろう。

ただ、その場合にでさえ、「Xさんが驚いた」という判断は、私が見たその光景がまずあり、その光景に対し「驚いた」という言語表現をあてがっている、つまりその見えたものと言葉との繋がりを認めたということなのである。つまり、ytb氏の言われる「客観性」「公共性」=「意思疎通が成功したように見えるかどうか」というものでさえ、主観的判断、より厳密に言えば・・・究極的には”経験と言葉との繋がり”へと還元されてしまうということなのだ。

要するに、客観性・公共性といえども、結局は主観の集積であるにすぎないのだ。
(※ より厳密に言えば「主観」ではなく、単なる「経験」なのだが・・・他者の賛同がいかにして純粋経験の事実として現れているのか、ということについては、拙著「西田は、思惟のプロセスが純粋経験であることと、思惟の 「正しさ」が純粋経験により根拠づけられることとを混同している〜西田幾多郎著『善の研究』第一編第二章「思惟」分析」の13〜14ページでも説明している。)

ytb氏ご自身が述べられているように、一人の人が一人の人について判断するだけでは、”もしかしたら「コミュニケーションがうまくいっている」という思いは、コミュニケーション参加者の錯覚かもしれない”し、”自己申告で、「彼女はぜんぜん僕の言うことを分かってくれていない」とか言うこともできるかもしれない”のである。

しかし、実際に多くの人の行為を観察したり、様々なメディアからの情報を調べた上で「他の人も同じように判断している」と認められれば、自らの見解が「公共性」「客観性」を持っていると考えることができるであろう。

繰り返すが、私がAについて理解する場合においても、他者がAについて理解したかどうかを私が判断する場合においても、結局は主観的判断、より厳密には経験と言葉との繋がりであることに変わりはないのだ。


 

2.極端な例を挙げている/主観=心理主義という決めつけ

「文の意味」という話題になると、決まって、文や言葉の意味なんて解釈する人それぞれで、共通の理解なんて存在しないし、ましてや意味の理論なんて構築不可能だと主張する人たちが出てくる。また、一見異なった立場だが、例えば、文や語がそれを聞いた人間の脳(もしくは心、心的プロセス)に何を呼び起こすかを特定して、そのニューロンの励起か何かを文や語の意味とする、という脳科学チックな解決法を考える人もいるかもしれない。



どちらのやり方も、意味というものがあるとすれば、それは人間の心の中のプロセス(後者の場合は生化学的)の中に私的に存在し、伝達したり共有したりはその後の話である(したがって困難である)という立場にもとづいているように思われる。
そして、どちらも、昔から心理主義的誤謬と呼ばれる誤謬の現代版であり、特に後者は現代のトンデモさん御用達である。
(ytb氏)



・・・ytb氏は極端な事例のみを挙げているように思われる。

文や言葉の意味なんて解釈する人それぞれで、共通の理解なんて存在しない”という見解はあまりに極端である。私たちは共通の理解に達していると思える場合もあれば、そう思えない場合もある、ただそれだけである。また、”ニューロンの励起”が言葉の意味だという見解も多くの人に支持されないのではなかろうか。

目の前に見えているものを「リンゴ」と呼ぶことについて、それはニューロン云々とは関係ない話である。では、「ニューロン」という言葉の「意味」とはいったい何になるのか・・・という話になってこよう。結局のところ、「ニューロン」とは顕微鏡で見えているその実物につけられた名前なのである。



 

3.経験と言葉との繋がりは、「心的プロセス」「心的作用」以前のもの

さらに厳密に言えば、経験と言葉との繋がりとは、「人間の心の中のプロセス」「心的プロセス」以前の問題なのである。そこに見えているものと「リンゴ」という言葉が繋がったこと、それはただそれだけの事実なのであり、それが「心の中のプロセス」かどうかという判断は、あくまで事後的分析により導かれるものなのである。

人間には目があって外部からの光の刺激によって像を結び脳が判断するというプロセスの構築がなされて初めて、そのものと「リンゴ」という言葉が繋がったことが「心の中のプロセス」であると判断されるのである。それらは因果関係の網の目の構築によって事後的に導かれる認識である。それ以前に、その見えたものと「リンゴ」、見えたものと「目」「ニューロン」「脳」、という経験と言葉との関係が構築された上で、はじめて「心的な作用」「心的プロセス」というものの分析も可能となる。

心的プロセス・心的作用⇒経験と言葉の繋がり、なのではなく、
経験と言葉の繋がり⇒様々な経験どうしの因果関係構築⇒心的プロセス・心的作用による説明、なのである。

ytb氏はコンピュータのOSやらCPUやらで言語判断について説明されているが、言葉の意味は「脳のニューロン」以前の問題であると同様に、OSやらCPU以前の問題でもあるのだ。

人間は、(その人間が生まれる前から存在する、社会的で公共的な)言語によって概念を定義し、概念を操作する。人間の場合でも、フレーゲ風に言えば、思想とは客観的なものである。ある程度以上抽象的な概念やその操作、例えば「言葉の意味」や「数学的概念の操作」は、公共的なもの、つまりコンピューターで言えばハードウェア依存ではないOSレベルの現象である。(ytb氏)



・・・フレーゲもytb氏と同様に「客観性」について誤解してしまっているようだ。主観的判断の集積により見出されたある程度の共通性が確保されているが故に、経験と言葉との関係をある程度無視した上で、言葉と言葉の関係として(本当はそうではないのだが)扱うことが可能となっているのである。

「言葉の意味」そのものが「公共的」であるが故にではなく、「言葉の意味」に関してある程度「客観性」「公共性」が確保されている事柄においてのみ、”言語によって概念を定義し、概念を操作する”ことが可能になっている、ということなのだ。ytb氏もフレーゲも「言葉の意味」の「公共性」「客観性」についての認識がまったくひっくり返ってしまっているのだ。



 

4.他者が理解できているかの判断の根拠とは?

ytb氏は、

主観的な人間観では、この多くの場面でなぜコミュニケーションが成立しているように見えるのか、説明できない(ytb氏)



・・・と述べられているが、”なぜコミュニケーションが成立しているように見えるのか、説明できない”のはむしろytb氏の見解の方なのである。

なぜコミュニケーションが成立しているように見えるのか”・・・具体的に考えてみれば、いろいろと条件が浮かんでくるはずである。XさんがAについて理解していると判断できる根拠は・・・自らがAについて何等かの具体的心像やら具体的経験を連想したり、実物やら現象を指示すことができる、それ故に、そのAがいかなる要素を持ち、そのAを知ることによっていかなる影響を及ぼしうるか、判断が可能となるのだ。

Aに関する「規則」やら「要素」やらは、Aに関する様々な経験を自らが有しているが故にその正当性が確かめられうるのだ。

しかし、他の人がAについて語るとき、私が思っていた「規則」やら「要素」と全く異なったものであったとしたら・・・他者が間違えているのか、あるいは自らが間違えているのか、さらに「規則」やら「要素」を厳密に検証する(経験と言葉との繋がりを確かめる)ことで誰の判断が正しいのか明確にすることができる。もちろん絶対的真理に達することはない。さらなる検証により、別の結論に到達する可能性を否定することはできないのであるが。

 
 
(2017.9.5[火])

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