2017年11月の日記


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意志と行為の因果関係は成立しない


ヒューム著、土岐邦夫・小西嘉四郎訳『人性論』(中央公論社)に掲載されている、

一ノ瀬正樹著「原因と結果と自由と」(1〜24ページ)分析の続き・・・


もし常識的見解のように、自由意志は因果的必然性が成り立っていないときに成り立つのだとするならば、自由意志というのは、それが産み出す行為と必然的にではなく偶然的にしか結びついていないことになる。ということは、たとえば右手を突き出そうと意志から直結するものではないということになる。だとすれば、かえって責任など問えないのではないか。であるなら、むしろ、「私たちの事実」として「自由意志」が成り立ち「責任」を問えるためには、意志あるいはその背景をなす行為者の性格や気質と、行為との間は、因果的必然性によって結びつけられていなければならないのではないか。そのように結びつけられていてはじめて、自由意志の結果であるといえ、そして責任概念が機能するのではないか。ヒュームはこういう。「人間の行為に原因と結果の必然的結合がなければ、正義や道徳的公正と適合するように罰を科するのが不可能である」(本書一七五頁)。こうしたヒュームの自由論は、自由と必然、あるいは自由と決定論が両立するという考え方なので、「両立主義」と呼ばれ、現代の自由意志論に甚大なる影響を与え続けている。(一ノ瀬氏、21〜22ページ)



・・・要するに、

(A) 意志と行為との因果関係⇒自由意志・行為の責任(ヒュームの場合。「両立主義」)
(B) 意志そのものが因果関係に支配されていない場合⇒自由意志(よく言われる因果論と自由意志との関係)

・・・ということではなかろうか。そして、自由意志について論じる際、まずは「意志」とは何か「自由」とは何か、さらには因果関係の必然性とは何か、ということについて改めて検証しておく必要がある。

最初に結論を述べておくが・・・(1)意志⇒行為という枠組みそのものが経験の事実として現れていない(2)意志と行為との因果関係はそもそも成立しない(3)必然性の獲得できない因果関係把握は「嘘」なのではない

つまりヒュームの「両立主義」はその前提から問題があり、そもそも成立しえない、ということなのである。

以下、具体的に説明してみよう(最後に自由についての考察を付け加えてある)。

 

(1)そもそも「意志」とは何か、「意志」というものなど実際にあるのか:「意志⇒行為」という枠組みは有効なのか

まずは「意志」とは何か、という問題について考えてみる必要がある。その場合も、当然「経験」に即して検証していく必要がある。

この人間の学自体に対して与えうる唯一のしっかりした基礎は、経験と観察とにおかれなければならない。(ヒューム著、土岐邦夫・小西嘉四郎訳『人性論』中央公論社、9ページ)



・・・そもそもが「意志」という経験とは何なのか、そこから検証していく必要があるのだ。私たちは「意志」というものを実際に経験などしているだろうか?

結論から言ってしまえば、「意志」というものは単なる後付けの概念である。これまでの経緯(経験)やら周辺情報やら、自らのこれまでの行為やら、浮かんでくるイメージやら感じる情動やら、そういった経験的事実から「意志」あるいは「欲望」「動機」というものが事後的に”解釈”されているのである。

「意志そのもの」が「経験」として現れて来ているだろうか? 「欲望そのもの」「動機そのもの」という経験が、どのように「観察」されているであろうか?

結局のところ、そのようなものなどどこにもないのだ。実際の具体的経験としては、これまでに見てきたもの、聞いてきたもの、感じてきた情動やら体感感覚、自らの行為(動き)やら、そういった具体的経験、あるいは想起された経験としてのイメージでしかないのである。それら様々な事実関係を解釈した上で、「〜したい」という「意志」「欲望」「動機」の解釈が事後的になされているのである。そういった解釈による概念化(リンゴが食べたい、とか画家になりたいとか)による事後的解釈に対し違和感を感じたり感じなかったり、そういった情動的感覚により確信がもたらされたり再考がなされたりしているのである。

もちろん、「リンゴが食べたい」とか「画家になりたい」と実際に文章として書いたり、具体的に思ったりしたのであれば、それは具体的経験である。しかしそれはあくまで「言葉」の経験であって、では実際にその言葉に対応する「意志そのもの」を「経験」として見つけることができるのか?と言われれば、やはり見つけることなどできない、実際にイメージできるのは、自らがリンゴを食べたり画家になったりするイメージやら、リンゴの味やら絵のイメージやら、それに伴う情動的感覚、そういった具体的経験として示すしかないのである。

つまり、

意志⇒行為、という枠組みそのものに問題があるのだ。そうではなく、
経験⇒意志(としての解釈)なのである。

そして実際に「意志」というものに基づいて行動しているのか、そこは可疑的である。後付けの解釈で「動機」やら「意志」やらがあったのだ、と”こじつけ”することはいくらでもできる。しかし本当にその解釈が「正しい」のか、本当にそのような「意志」というものがあったのか、疑わしいのである。

つまり、どこにも見つからないものが「自由」だとかそうでないとか、そもそもいかにして判断することができようか?

それらのことを念頭に置いた上で、以下の一ノ瀬氏の文章を見てみる。

 自由意志については、現代では、「脳神経倫理」と呼ばれる領域などで、自然科学の成果との対照のもと、真剣な検討が行われている。たとえば、ベンジャミン・リベットの実験は有名である。リベットは、行為への意志を自覚する以前に、脳の中に「準備電位」という行為に対応する状態が先行的に生じていることを実験的に見出し、自由意志の問題はそうした脳現象を射程に入れて論じなければならない、と示唆したのであった。けれでも、こうした議論にヒューム由来の「両立主義」の論点をぶつけたらどうなるか。・・・(中略)・・・少なくとも、「準備電位」の存在によって、直ちに「自由意志」の身分が危うくなるとはいえないことになろう。(一ノ瀬氏、22ページ)



・・・この実験について、

@ 「行為への意志を自覚」とは具体的にどういうことであろうか? 「〜したい」と具体的に思ったり書いたりしたことであろうか? そうでなければ、いかにして「自覚した」と言うことができるのであろうか?
A そもそも「意志」というものが後付けの概念である。つまりそういった後付けの「解釈」に先んじて脳の中に情動的な感覚やら、その他、上記の文章における「準備電位」というものが現れて来ていることは、ごく自然なことであろう。

一ノ瀬氏は、上記の実験の解釈をする前に、まずは「意志」とは何かもう少し厳密に検証しておく必要があるということだ。

ただ、いずれにせよ、情動的感覚、その他の様々な体感感覚などの経験は、ただただやって来るもの、それがそれが必然であろうとどうであろうとただただやって来るもの、そこに「自由」という概念を当てはめること自体が間違いなのではなかろうか?


 

(2)因果関係が事象と事象、経験と経験との関係であるとすれば、「意志」と「行為」の因果関係は成立しない

このことは、拙著

欲望と因果関係 〜『システムにとって意図とは何か』の分析を中心に〜
http://miya.aki.gs/miya/miya_report5.pdf

・・・で詳細に述べている。「意志」と「行為」の因果関係は成立しないのである。一部引用してみる。

私たちは実際に何を体験し、何を体験していないのか・・・欲望そのもの、本体のようなものを私たちは体験していない。”意図”とは、あくまで抽象的な言葉で あり、私たちの具体的な体験ではない。それでは実際に体験しているのはどんなことであろうか?



・「○○したい」と思ったりしゃべったりしたこと
・メモを取ったりしたこと
・思ったり喋ったり、メモを取ったりした後で、行為する前に様々な想像をしたり 計画を立てたりすること



つまり、因果関係を考えるのであれば、”意図と行為”ではなく、これら実際に体験した具体的経験や行為の関係を考えなければならないのではなかろうか。そして、実際に前の日に考えた、あるいはメモした、そして次の日に行為した、その二つの事象の間にどんな具体的な”関係”があるのかどうか、何かメカニズムでもあるのか、それは因果関係を認めた時点においては私たちの直接経験には現れていない。つまり”謎”である。結局は、(行為者あるいは行為の観察者が)体験(出来事、事象、現象)と体験との関係を認めた、という事実があるだけなのだ。(宮国、15〜16ページ)



 

結局は



・しゃべったり、メモしたりすることと脳の記憶の関係
・何らかの意図を明確に概念化したときの脳の働きと、実際の行為との関係、など
(宮国、16ページ)



・・・といったような具体的経験の事実から因果関係が導かれる必要があるのだ。これらのことを考慮した上で、因果関係を構築してみたところで、やはりそれらは自由意志とは関係ない事柄になってしまう。

仮に「リンゴを食べたい」と具体的に思った上で、目の前のリンゴを手に取り食べることができたとする。これは「自由意志」の問題というより、単に「解釈された意志」と行為とが上手く繋がった、という心身の働きの問題であるにすぎないのではないか。

別の例を挙げてみよう。パソコンのDeleteのキーを押したい(これも事後的解釈ではあるが)ときに、ついついBackSpaceのキーを押してしまって、それが癖になってしまった・・・という場合において、Deleteのキーを押そうとする⇒BackSpaceの、キーを押してしまう、という関係が常態的に生じる、つまりヒュームの言う因果性の必然性というものが見出せてしまうのである。果たしてこれが「自由」というのであろうか?(ただ「責任」を問うかどうかの基準の一つにはなりそうだが)

また、一ノ瀬氏は、

「私たちの事実」として「自由意志」が成り立ち「責任」を問えるためには、意志あるいはその背景をなす行為者の性格や気質と、行為との間は、因果的必然性によって結びつけられていなければならないのではないか。(一ノ瀬氏、21ページ)



・・・と述べられているので、「意志」だけでなく「性格」や「気質」というものも考慮に入れられている。しかし、「性格」や「気質」というものも、やはり具体的経験の集積によって解釈されるものである。あるいは行動において現れてくる一定の「傾向」のようなものであって、それが「自由意志」とは関係ない概念であることは明白である。自らに与えらているものであるからこそ気質なのである。

そもそもが経験というものは、ただただやって来るものである。ただやって来るものに対し、それが「自由」だとかそうでないとか、いかにして区別するのであろうか?

 

(3)必然性の獲得できない因果関係把握は間違いなのか?

因果関係の必然性は、その繰り返し、習慣性によりもたらされるということであった。ではその必然性が認められない場合、因果関係が存在しないと言い切れるのであろうか?

因果関係に必然性が見られたとしても、それは決して「絶対的真理」などではなく、あくまでこれまでの経験において常にそうであった、あるいはかなり高い確率でそうであった、という事実に支えられているにすぎないのである。

一方、繰り返しが認められないような、一回きりの場合(他の経験と同一性を認められないような場合)はどうであろうか? その因果関係は「嘘」なのであろうか? ・・・そうではない。それは単に仮説的な推論あるいいは確信であるということなのであって、それが「嘘」であるという保証はないのである。

たとえば、Aさんの言ったことを聞いたからBさんを殴ってしまった、というような出来事の場合、日常的な生活においては繰り返されないような一回性の出来事などたくさんあるだろう。しかし日常的生活においても、私たちは因果性をもとに様々な推論を行っている。それらの因果関係は、ヒュームの言う「必然性」を見出すこともできないが、だからといって否定もできないのである。過ぎ去った過去の出来事、再現できない出来事における因果性をさらに検証することさえできない。永遠に「仮説的因果関係」のままなのである。


 

(4)「自由」だという解釈はいかなる場合に与えられるのだろうか?

一般的に、「学校の束縛からの自由」とか「会社の束縛からの自由」とか、「自由」とはあくまでそういった風に用いられる概念である。一ノ瀬氏の議論の中では「因果律からの自由」であろう。

ただ、これまでの議論から、「因果律に支配されない」と完全に言い切れないことが理解されると思う。同様に「因果律に支配されている」と完全に言い切ることもできないのである。

分からないことは「分からない」と言うしかないのである。

ただ、仮に「因果律に支配されない」と言い切れたところで、それが「自由」であると実感されるのであろうか?

既に述べたが、経験はただただやって来るもの、それが必然か偶然かは関係なしにただやって来るものである。西田は次のように述べている。

 また我々は普通に意志は自由であるといって居る。しかしいわゆる自由とは如何なることをいうのであろうか。元来我々の欲求は我々に与えられた者であって、自由にこれを生ずることはできない。ただ或る与えられた最深の動機に従うで働いた時には、自己が能動であって自由であったと感ぜられるのである、これに反し、かかる動機に反して働いた時は強迫を感ずるのである、これが自由の真意義である。(西田幾多郎『善の研究』岩波新書、48〜49ページ)



・・・要するに動機と動機、意志と意志との兼ね合い、葛藤やらに応じて感じる情動的感覚によるもの、という見解である。動機や意志そのものが後付けの解釈ではあるが、いずれにせよ、精神的葛藤やら安堵感やら違和感やら、そういった情動的感覚が「自由」というものの支えになっていると言えなくもない。

私は「自由」とは状況を表わすもの、と述べたことがあるが、上記の意味では情動的感覚も要素に含める必要があるかもしれない。ただ、それならば「自由」とは何か、ということについてもう少し厳密に定義する必要があると思われる。「自由」の意味を恣意的に拡大・縮小してしまえば、結論がいかようにも導けるからである。

ただ、問題となるのは、先に述べた「学校の束縛からの自由」とか「会社の束縛からの自由」にせよ、結局のところは目的とその阻害要因との間の「葛藤」およびそれに伴う何らかの感情・情動的感覚に収れんされるのではなかろうか。

そのような「葛藤」をもたらすのが不自由、もたらさないのが自由、という見解を示すことも可能ではあろう。
2017.11.26[日]
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ヒュームは言葉と経験との関係を見逃してしまっているかもしれない


ヒューム著、土岐邦夫・小西嘉四郎訳『人性論』(中央公論社)に掲載されている、

一ノ瀬正樹著「原因と結果と自由と」(1〜24ページ)を読んでみた。

 もちろん、ヒュームの議論は完璧ではない。さまざまな批判にこれまでもたらされてきた。先の、風と電車の発車のような場合は何とか処理できるが、もっと巧妙な形で「共通原理」が隠されている場合には、原因結果でないものを因果関係と見誤ってしまうことを排除できないのではないか。あるいは、「Rさんは日本人女性である」という理解と、「Rさんは日本人である」という理解との間の関係のように、原因結果ではなく、単に論理的な関係でも、観念についての「私たちの事実」としては、「近接」、「先行」、「恒常的な相伴(恒常的連接)」を満たしていまい、ヒュームの枠組みだと原因結果になってしまうのではないか、などなど。しかし、もともと原因結果の問題は「見えない糸」の問題である以上、どこかにもやもやが残ってしまうのは致し方ない。因果性の形而上学的由来がどうしても後を引いてしまうのである。しかしむしろ、誠実であればあるほど、そうしたもやもやをくっきりと浮かび上がらせるべきなのであり、ヒューム因果論はそうした課題を達成していると、そんな風に肯定的にいってよいのではなかろうか(そもそも哲学に何を求めるのか?完全な解決・回答か?)。(一ノ瀬氏、19〜20ページ)



・・・この一ノ瀬氏の見解には、取り違えがある。そしてヒュームの見解に不備があることも事実である。具体的に述べてみよう。

 
(1)一ノ瀬氏の取り違え

・・・因果関係を見誤ってしまう可能性は、”ヒュームの議論”の欠陥なのではなく、因果関係そのものの性質なのである。実際、社会科学・自然科学どちらにおいても、因果関係が捉え違いだと明らかになり、新たな因果関係が構築されることは多々あることだ。科学理論は絶対的真理ではない。新たな発見により別の理論が構築されることなど、よくあることである。そもそも、因果関係はアポステリオリなものである。

伝統的にいうところの「機会原因論」、あるいは今日的に言えば「共通原因」”(一ノ瀬氏、6ページ)の問題も、結局のところ、経験として「見えない」ものは「仮説」以上の物にはならない、ということである。

そして「共通原因」の反論についても、結局のところ因果関係の枠組みで思考していることには変わりないのである。共通原因の仮説を構築したところで、その因果関係における「によって」が「見えない」ことについては同様なのである。


 
(2)ヒューム理論の不備

・・・(一応『人性論』を最後まで読んでみる必要はあるのだが、一ノ瀬氏の文章を読む限りにおいては)ヒュームは事象と事象との関係について考察したが、言葉と事象との関係について見逃してしまったようである。

ヒュームは、知覚を、生々しい直接的な「印象」と、「印象」のコピーとしての「観念」との二つに区分する。(一ノ瀬氏、13ページ)



・・・ここで「観念」という言葉で済ませてしまったのだ。ここにおいて「言葉」とは何か、という問題が置き去りにされてしまった

原因結果でないものを因果関係と見誤ってしまうことを排除できないのではないか。あるいは、「Rさんは日本人女性である」という理解と、「Rさんは日本人である」という理解との間の関係のように、原因結果ではなく、単に論理的な関係でも、観念についての「私たちの事実」としては、「近接」、「先行」、「恒常的な相伴(恒常的連接)」を満たしていまい、ヒュームの枠組みだと原因結果だと原因結果になってしまうのではないか(一ノ瀬氏、19ページ)



・・・という問題は、言葉と経験との関係と、経験と経験との関係との混同によってもたらされてしまっているのだ。


そして最後に、念のため付け加えておきたいのだが、

 
(3)経験が「心のなか」かどうかは、それこそ因果関係の連鎖によって構築された客観世界にもとづいた認識である。要するに肉体を持つ私が、眼からものを見て、私の心の中で判断し(あるいは脳によって判断し)理解している、という一般的客観認識に基づいている。

つまり、「必然性は心のなかに存在するなにものかであって、対象のなかにあるのではない」(本書八六頁)のであり、そういう形での「心の内的な印象」(本書八六頁)なのである。(一ノ瀬氏、18ページ)



・・・という見解をエポケーする必要がある、ということなのだ。心が先にあるのではない。心があって経験が可能になるのではない。まずは経験が先にあるのだ。

あと、自由意志の問題についても「自由」という概念を検証しなおす必要があるのだが、これについてはまた別の機会に論じておきたい。自由意志の問題は科学の問題ではないのだ。

 
 

それにしても、ヒュームの発想それ自体は素晴らしい・・・

 
 
(2017.11.20[月])
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眼が見ているのではない


以下、『論理哲学論考』(ウィトゲンシュタイン著、野矢茂樹訳、岩波文庫)116〜117ページからの引用である。

このあたり、現象学者たちはどう考えているのだろうか?

5.631 思考し表象する主体は存在しない。
 「私が見出した世界」という本を私が書くとすれば、そこでは私の身体についても報告がなされ、また、どの部分が私の意志に従いどの部分が従わないか等が語られねばならないだろう。これはすなわち主体を孤立させる方法、というよりむしろある重要な意味において主体が存在しないことを示す方法である。つまり、この本の中で論じることのできない唯一のもの、それが主体なのである。



5.631 主体は世界に属さない。それは世界の限界である。



5.633 世界の中のどこに形而上学的な主体が認められうるのか。
 君は、これは眼と視野の関係と同じ事情だと言う。だが、君は現実に眼を見ることはない。
 そして、視野におけるいかなるものからも、それが眼によって見られていることは推論されない。



5.6331 つまり、視野はけっしてこのような形をしてはいないのである。




5.634 このことは、われわれの経験のいかなる部分もア・プリオリではないということと結びついている。
 われわれが見るものはすべて、また別のようでもありえた。
 およそわれわれが記述しうるものはすべて、また別のありようでもありえたのである。
 ものにはア・プリオリな秩序は存在しない。



5.64 ここにおいて、独我論を徹底すると純粋な実在論と一致することが見てとられる。独我論の自我は広がりを欠いた点にまで縮減し、自我に対応する実在が残される。



(引用おわり)

・・・まず、共感できる点を挙げてみよう。

(1)「思考し表象する主体は存在しない」という見解、「形而上学的な主体」の否定に関しては全くそのとおりだと思う。

・・・現象学者たちは超越論的主観性というものを頑なに信じているが、そんなものいったいどこにあるのだろうか? ”独我論を徹底すると純粋な実在論と一致することが見てとられる。独我論の自我は広がりを欠いた点にまで縮減し、自我に対応する実在が残される”という見解もそのとおりだと思う。結局、何らかの「主体」を想定せざるをえず、それをどのように根拠づけるかという問題が生じ(しかし因果関係の助けなしに根拠づけることが不可能)、アポリア、あるいはパラドックスに陥ってしまう。

(2)「5.6331 つまり、視野はけっしてこのような形をしてはいないのである。」という見解もまったくそのとおりだと思う。

・・・要するに、具体的な経験の事実としては、「眼が見ている」のではない、ということなのだ。それは”私の身体についても報告がなされ”た上で成立する見解なのである。眼が見て脳で情報を処理し体が動くといった、一連の因果連鎖に基づいた身体メカニズムというものが構築された上で認められる認識なのである。

次に共感できない点を挙げてみよう。

(1)”視野におけるいかなるものからも、それが眼によって見られていることは推論されない”というのは断定しすぎである。

・・・先に述べたように、具体的経験の事実としては、「眼が見ている」のではない。しかし、因果連鎖に基づいた身体メカニズムが構築されていれば、それに基づいて”眼によって見られている”と判断が可能なのである。

つまり、「形而上的な主体」というものなどどこにも現れてこないのであるから、当然語ることさえできない。一方、因果連鎖に基づき構築された客観認識においては、物体として存在し、眼や脳やその他身体機能を備えた「私」(さらには人間一般)という存在を認めることはできるのである。

(2)”経験のいかなる部分もア・プリオリではない”のは当たり前

・・・この表現はナンセンスである。経験に先んじるからア・プリオリなのである。そして経験に先んじるものなどない。そしてこの場合の「経験」とは「私」や「他者」が「世界」あるいは「宇宙」の中に存在しているという客観把握のことではない。ただただ見えたもの、聞こえたもの、感じたもの、現れてきたイメージやら言葉やら、そういった具体的経験(純粋経験)のことなのである。そして、客観認識がア・プリオリではないことは言うまでもない。

われわれが見るものはすべて、また別のようでもありえた”と判断が可能なのは、具体的経験から構築された因果連鎖に基づく客観認識が構築されているからである。経験そのものは「時間」ではない。経験から時間認識が構築されることで、”われわれが見るものはすべて、また別のようでもありえた”という判断が可能になるのである。

(3)”ものにはア・プリオリな秩序は存在しない”という見解は論理にも適用されるはずである。

 
(2017.11.13[月])

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