『善の研究』におけるヘーゲルの影響、とくに「統一的或る者」という概念との関係についていろいろ調べているのであるが、以下のような論文を見つけたので、さっそく読んでいるところである。
小坂国継著「二つの弁証法──ヘーゲルと西田幾多郎」『比較思想研究』第16号、比較思想学会、1990年、168〜176ページ
西田によれば、すべて認識は判断の形式において成立する。判断の典型は包摂判断であって、そこでは主語(特殊)は述語(普遍)の内に包摂される。しかるに、アリストテレスの個物はけっして述語とならないものであるから、それはいかなる普遍の内にも包摂されえない。個物が普遍の内に包摂されえないということは、それが概念的認識の対象とならないということである。すると、アリストテレスの論理学においては、概念を超越したものが概念を規定するということになり、それは必然的に形而上学にいきつく。 そこで、主語となって述語とならない個物がなお概念的知識の対象となるためには、それは何らかの形で普遍のなかに包摂され、普遍によって規定される必要があろう。しかし、このように個物を包摂し、個物を規定する普遍はもはや先ほどの普遍すなわち個物に対立する普遍(具体的普遍)である。そして個物はこのような具体的普遍の自己限定と考えられる。いうまでもなく、これがヘーゲルの論理学であって、西田はそれを述語主義の論理と呼ぶ。そして西田はかような具体的普遍が彼のいわゆる「場所」にあたると説いている。(小国氏、172ページ)
・・・こういった主語・述語の関係はいかに成立しているのか、それを西田自身が『善の研究』で既に説明してしまっている。そしてその説明は上記の「普遍」やら「個物」の関係をまるで否定するものでもあるのだ。西田自身どのようなつもりで以下のように説明したのだろうか・・・
例えば「馬が走る」という判断は、「走る馬」という一表象を分析して生ずるの である。それで、判断の背後にはいつでも純粋経験の事実がある。判断において主客両表象の結合は、実にこれに由りてできるのである。勿論いつでも全き表象が先ず現れて、これより分析が始まるというのではない。先ず主語表現があって、これより一定の方向において種々の聯想を起し、選択の後その一に決定する場合もある。しかしこの場合でも、いよいよこれを決定する時には、先ず主客両 表象を含む全き表象が現れて来なければならぬ。つまりこの表象が始から含蓄的に働いて居たのが、現実となる所において判断を得るのである。かく判断の本には純粋経験がなければならぬということは、啻に事実に対する判断の場合のみでなく、純理的判断という様な者においても同様である。例えば幾何学の公理の如き者でも皆一種の直覚に基づいて居る。たとい抽象的概念であっても、二つの者を比較し判断するにはその本において統一的或る者の経験がなければならぬ。い わゆる思惟の必然性というのはこれより出でくるのである。(西田幾多郎『善の研究』岩波文庫、28〜29ページ)
・・・「統一的或る者」という表現は余計であるが、いずれにせよ”「馬が走る」という表現は一表象(ここでは実質的に表象=心像である)を分析して生ずる”ということなのである。
これは表象に限ったことではない。実際に見えているものについてもそうである。
そこに見えているものが「馬」であり「走っている」のであり、「走っている馬」なのである。それは概念どうしの「包摂」やら<発展>という関係ではなく、「馬」やら「走っている」と言語表現されている対象としての表象やら具体的事象やらの経験どうしの関係なのである。
そしてなぜ主語と述語が繋がるのか、それは同一表象、あるいは同一の経験として示すことができるものだからである。
しかしながら、ヘーゲルの場合、たしかに「普遍が個物である」とはいえても、「普遍が個物を包摂する」とはいえない。いいかえれば、ヘーゲルにおいては、なるほど普遍は個物へと<発展(entwickeln)>とはいえても、個物を<包含する(enthalten)>とはいえない。そこで、この<包含>の意味をあらわすために「場所」という言葉を用いるのだ、と西田はいっている。(小国氏、172〜173ページ)
・・・ヘーゲルや西田の説明だと、まるで「概念」という「実体」がそれ自身で「包含」したり「発展」したりするかのようなイメージを与えてしまうのだ。しかし「概念」とは一体何なのか? 私自身繰り返し述べていることであるが、「馬」や「走る」という言葉はある。しかし、それに対応する具体的経験を離れて「イデア的」な「実体」というものはどこにも見つけることができないのだ。あるのは具体的心像(『善の研究』における表象)やら具体的光景やら感覚やらなのである。
そのため、西田やヘーゲルの議論は、具体的経験を離れた「言葉どうしの疑似論理遊び」と化してしまっているのである。
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前期の西田哲学は全体として「意識」の立場に立っていた。「純粋経験」といい、「自覚」といい、「絶対自由意志」といっても、要するにそれは広義における意識である。しかしながら、西田のいう「意識」はあくまでも「作用」としての意識であって、「対象」としての意識ではない。いいかえれば、彼が追及したのは「意識された意識」ではなく、どこまでも「意識する意識」であった。(小坂氏、171ページ)
・・・どうしても哲学者は「経験内容」(ここでは対象ということになろうか)ではなく「作用」の方を実体化したがるようだ。経験として現れる方ではなく、現れないものの方を「実体」だとか「本体」だとかにしたがる。
意識は作用であって、存在ではない。作用としての意識はけっして対象化せられえないものである。(小坂氏、171ページ)
・・・具体的経験として現れない想定概念(空想概念)だから、対象化せられないのも当然である。
そして、ここで「対象化」とは何なのであろうか? そもそも「対象化」という表現に問題がある。そこに「対象化」する「主体」などどこにも見当たらないのだから。
私たちが「対象化」するというとき、具体的経験としては、特定の心像やら感覚やらを思い浮かべ、それを言語化しただけなのである。「想起」といえども、結局は一つの具体的経験の現れにすぎない。西田自身が述べている。
記憶においても、過去の意識が直に起ってくるのでもなく、従って過去を直覚するのでもない。過去と感ずるのも現在の感情である。抽象的概念といっても決して超経験的の者ではなく、やはり一種の現在意識である。(西田幾多郎『善の研究』岩波文庫、18ページ)
・・・繰り返すが、「対象化」できない、というのはこのように具体的心像やら感覚・感情やらとして、純粋経験として現れることがない、ということと同義なのである。
それが「意識された意識」であろうと「意識する意識」であろうと、結局は主体が客体を”意識する”という主客の関係を前提とした表現であることには変わりない。
作用としての意識の立場から、かような意識をもなお自己の内に映し、自己の内に包容する立場に立とうとした。それが「場所」の概念の原型であって、彼自身、この点に関して、「何処までも判断的知識の背後に見られねばならない述語面といふ如きものが、私の所謂場所であって、それはカント学者の認識主観に相当すると云ってよい。唯、従来の考へ方の如く主観を統一点といふ様に考へないで、包容面といふ様に考へる店に於て異なるのである」(小国氏、172ページ)
・・・そのような想定概念を「包容」する「場所」という概念そのものが既にファンタジーの世界なのである。
(2018.1.28[日])
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