新しいレポートを書きました。「知覚の哲学」に関してやっとまとめることが出来ました。
経験とは? 経験論とは? http://miya.aki.gs/miya/miya_report19.pdf (※ 10月13日に1ページの文章を修正しました)
<目次> T.経験とは? 1. 経験とは? 2.経験論とは? U.真理とは? 1.「正しい/正しくない」という評価の対象となるとは? 2.明証性と事実把握の「正しさ」との混同 3.真理とは新しい真理が見出されれば覆されるもの 4.「推論的」「非推論的」の区分と、「他の知識を前提とする」かどうかとは全く別の問題 V.結局は“所与”から始まっている 1.「みえる」と「である」の順序の逆転とは 2.「意味論的規則」も結局は経験と言語表現との繋がりから始まっている 3.「言語共同体」が必ず必要なのか? W.セラーズの「経験論」とは? 1.概念、表象という用語が見えなくするもの 2.セラーズは実質的に、個人的な事実把握が客観性を獲得するプロセスを説明している 「知覚の哲学」に関して、その議論の前提、用いられている用語などに問題があるのではないか、議論そのものが有効なものなのだろうか? そもそもが「経験」とは何なのか、「真理」「正しい」とは何なのか? そこの議論が置き去りにされてはいないだろうか? 本稿では、T〜V章で、
三谷尚澄著 「マクダウエルはセラーズをどう理解したのか? : 「みえるの語り」の選言主義的解釈をめぐる一考察」『人文科学論集. 人間情報学科編』44、信州大学、2010年、1〜20ページ
・・・における三谷氏のマクダウェル・セラーズ解釈(とくにセラーズ)を分析することで、「知覚の哲学」の議論における問題点を示していく。最後にW章において、
三谷尚澄著「経験論の再生と二つの超越論哲学 -セラーズとマクダウエルによるカント的直観の受容/変奏をめぐって」『哲学論叢(2011)』38、2011年、45〜60ページ
・・・にも触れ、セラーズ・三谷氏の言う「経験論」について検討する。 三谷氏の論文を対象にしたのは、三谷氏が「経験論の再生」「非伝統的経験論」というものに言及されているからである。セラーズ・三谷氏、あるいはマクダウエルが経験論を語るとき、なぜかデカルトやカントが引き合いに出されている。三谷氏は問題があることを認めつつもカントを「非伝統的経験論の提唱者」(三谷氏「経験論の再生と二つの超越論哲学」59ページより)と見なそうとされているのだ。しかしカントは「経験」というものを正確に捉えているであろうか? そもそもが「超越論」という時点で正確に実際の具体的経験というものを示せているのであろうか? ヒュームやジェイムズ(あるいはその他の経験論者)たちの見解を無視して経験論を築くことはできるのであろうか? 経験論を「再生」するのであれば、実際の具体的経験とはいかなるものなのか、そして経験論とは何なのか、もっと慎重に分析・考察する必要があるのではなかろうか。
(2018.10.4[木])
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