純粋経験論とは(トップページに戻る


純粋経験論(あるいは根本的経験論)とは、経験の事実そのものから哲学を構築する試みのことである。哲学史の流れの中に位置づけるとすれば、ヒューム・ジェイムズ・(最初期の)西田の系列に属するもの、そして彼らの「経験論」を究極まで徹底させようとするものである。

純粋経験=直接経験=実際に経験していること・事実そのまま、である。純粋経験論の「原理」というものをあえて挙げるのだとすれば、以下のものである。

経験論が根本的であるためには、その理論的構成において、直接に経験されないいかなる要素も認めてはならず、また、直接に経験されるいかなる要素も排除してはならない。(W.ジェイムズ著・伊藤邦武編訳『純粋経験の哲学』岩波文庫、49ページ)

・・・それ以上でも以下でもない。しかし過去あるいは現代の哲学者の著作を読んでいると、これが実は非常に難しいことであるようなのだ。ついつい何によっても根拠づけられていない前提を持ち込んでしまったり、具体的経験とは異なるモデルを想定してしまったり、具体的経験から離れて何の根拠も示されていない言葉と言葉との関係に拘泥してしまっているようなのだ。

経験として具体的に現れているものは経験なのだ。当たり前のことであるが。つまりあらゆる事象が経験であり、一般的に思考・思惟あるいは反省と呼ばれている事柄でさえ、具体的経験であることに変わりはない。問題は、それが実際の具体的経験としていかに現れているのかであり、そこで想定概念やらモデル概念を持ち込むことなく、そのままを説明することが重要なのである。(ヒューム、ジェイムズ、西田ともにそれに成功してはいない)

自らの具体的経験をよくよく検証してみてほしい。以下に示す事柄はまさに具体的経験であって、実際にそうなってしまっている事柄、反論しようにもその術がない事柄ではなかろうか。

・形而上学的主体、観念的主体、超越論的主観性、というものを見つけることはできない。経験とはあくまで「経験内容」(見えたもの、聞こえたもの、感じたもの、あるいは浮かんできたイメージやら言葉、といった具体的経験である)でしかなく、そこに経験を「可能にする」なにがしか(例えば主体やら作用やら)は経験として現れることはない。主体があるから経験があるのではなく、まずは経験が現れている、主体云々はそこから因果的に導かれるものなのだ。

・「思考」「思念」という経験はない。純粋経験としては、言葉やら現れてくるイメージやら感情・情動やら、その他見えているもの・聞こえているもの、感じているもの、そういった具体的経験しかない。それらの経験を総合して「思考」「思念」と呼んでいるのであって、「思考そのもの」、「思念そのもの」を「反省」によって抽出しようとしても見つかることはない。

・経験の前提として因果関係があるのではなく、まず経験した事実があり、因果関係はそれらの経験を事後的につなぎ合わせた上で把握されるものである。事象と事象(経験と経験)とを因果関係としてつなぐ「作用」「力」あるいは「因果関係そのもの」を見つけることはできない。経験として現れるのは、ただ事象Aが起こると事象Bも起こるという個別的経験、あるいはその経験の繰り返し以上のものではない。つまり因果関係はアプリオリなものではない。そもそもアプリオリというものは存在しない。ある経験と経験とを結びつけた経験があるのみ、そしてその「必然性」とはその経験の繰り返しによってもたらされるもので、特定の出来事一つをいくらほじくり返しても因果関係の「必然性」が明らかになることはない。

・言葉を話したり聞いたり書いたり読んだり(見たり)することも純粋経験である。「なぜ言語が成立するか」と問う以前に、まず言葉が経験として現れているという事実がまずあって、その「理由」を問うのは事後的な因果関係構築であるにすぎない。ヒューム・ジェイムズ・西田ともに言葉が具体的経験として現れている事実を”額面通り”に捉えることに失敗しているのだ。

・言葉の意味とは、その言葉に対応する経験であり、言葉と経験との間にイデア、あるいはイデア性を持つもの、あるいは意味作用のようなものを見いだすことはできない。つまり経験を離れて言葉の意味というものはない。それは抽象概念においても同様である。抽象概念と言えども、経験から離れたところに「意味」というものが存在しているわけではない。言葉の意味として浮かぶものは、常に具体的心像やら具体的感覚でしかない。

・純粋経験は時間ではない。「今・現在」を「経験」しているのではなく、経験しているものを「現在」と呼んでいるだけである。時間が流れるのではない。経験が変化したりしなかったりしているだけなのだ。また、「万物は流転する」という説明は経験の一部のみを強調してすべてであるかのように錯覚させているだけである。「変化」「差異」をありのまま受け入れるのであれば、「同一性」「不変」もありのままに受入れなければおかしいのである。

付け加えれば、ヒューム、西田も次のように述べている。

この人間の学自体に対して与えうる唯一のしっかりした基礎は、経験と観察とにおかれなければならない。(ヒューム著、土岐邦夫・小西嘉四郎訳『人性論』中央公論社、9ページ)

経験するというのは事実其儘に知るの意である。全く自己の細工を棄てて、事実に従うて知るのである。純粋というのは、普通に経験といっている者もその実は何らかの思想を交えているから、毫も思慮分別を加えない、真に経験其儘の状態をいうのである。それで純粋経験は直接経験と同一である。(西田幾多郎『善の研究』岩波文庫、17ページ)

さらに付け加えれば、フッサールも次のように記している。

哲学を新たに始める者としての私は、真正な学問という想定された目標に向かって一貫して努力するなかで、自分で明証から汲み上げたのではないもの、問題の事象や事態が「そのもの自身」として現前するような「経験」から汲み上げたのではないものについては、いかなる判断も下さず、通用させてはならない、ということだ。(フッサール著『デカルト的省察』浜渦辰二訳、岩波文庫、36ページ)

・・・この原理を貫徹するためには、経験そのままの事実と推論・仮説とを混同しないことが重要である。推論した事実、仮説を立てた事実は純粋経験であるけれども、推論した内容そのものは(経験の事実として現れていなければ)それは純粋経験ではないのだ。

ジェイムズ・西田・フッサールはここで躓いている。「そうであるにちがいない」「そうであるはずだ」は純粋経験ではないのだ。経験に基づかない仮説の積み重ねは恣意的なストーリーの構築に繋がってしまう。


※ 純粋経験に関する誤解については、以下のブログ記事でも説明しています。

精神集中していても、していなくても、思考・判断していても、「私」について考えていても、やはり主客未分である/精神集中と時間感覚
https://keikenron.blogspot.com/2019/05/blog-post_31.html

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「なぜ」と問うことが哲学なのではない。「なぜ」を問うことが哲学なのである。

「なぜ」と問うことが哲学なのではない。そして哲学は「なぜ」に答える学問でもない。「なぜ」と問うとはどういうことなのかを明らかにする学問である。
「なぜ」と問うて、そして答え、納得する、そのプロセスを私たちの経験を厳密に検証することで明らかにする、そのプロセス、事実を記述・説明する学問である。

「なぜ」と問う、ということは、要するに因果関係構築プロセスである。
哲学はあくまでそのプロセスそのものを問題にするのであり、つまり「因果関係」とは何か、ということを、私たちの経験そのものと照らし合わせながら説明していくものである。

「なぜ」の”答え”を与えるものが哲学ではないのだ。

その他、哲学的問いでは”ない”ことを挙げてみる。

・霊魂はあるのかないのか
・死後の世界はあるのか
・同じ遺伝子を持った人間を、全く同じ環境に置いたら同じように行動するのか
・ロボットや人工知能に意識はあるのか
・タイムマシンで過去を改変したらどうなってしまうのか
・宇宙に終わりはあるのか
・神はいるのか
・人はいかにして生きるのか
・人はいかにすれば幸せになれるのか

・・・因果的知識に関わる問題は、科学的手法に基づき明らかにするものであって、哲学の課題ではない。それでも分からないことは分からないのであって、ただそれだけのことだ。
また、いかにして生きるかなど、人々がそれぞれ勝手に(といっても普通は自分の気持ちと周囲の環境双方を考慮するのであるが)決めることであって、哲学者が決めることではない。それこそ余計なお世話である。


科学理論を哲学の根拠にはできない。それは循環論法である。

科学理論を哲学という学問の根拠づけに使おうとしたり、科学理論と哲学を融合させようとする試みもあるようだが、それらは科学理論を構築するプロセスを全く無視したものである(「唯脳論」も同様である)。科学理論を導き出すための観察や実験、さらには因果関係構築プロセスを考慮すれば、それらが循環論法であることが明らかとなって来る。

以下のブログ記事で詳細に説明している。

科学理論から哲学を根拠づけるのは循環論法
https://keikenron.blogspot.com/2019/04/blog-post_20.html


論理で哲学を説明するのではなく、論理とは何かを説明するものが哲学である

哲学は、「理論」あるいは「論理」とは何かを説明するだけである。

哲学は、いかなる経験をもって「無意識」と呼んでいるのかを説明することはできるが、「無意識」そのものが何なのかを説明するものではない。
哲学は、科学理論における「正しい」「間違い」がどのように成立しているのか説明することはできるが、科学理論そのものを構築するのではない。
哲学は、「意味」とは何かを説明することはできるが、「いかにして生きるか」という指針を示すものではない。


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<関連するレポート>

※ それぞれ、特定の文献を詳細に分析しながら自論を展開していますので、対象となる著作を読んでいないと理解しにくいものになっています。ご了承ください。

純粋経験論の考え方について、全体的な内容については、

「イデア」こそが「概念の実体化の錯誤」そのものである 〜竹田青嗣著『プラトン入門』検証
http://miya.aki.gs/miya/miya_report11.pdf

・・・を読んでいただければと思います。意味の問題、論理の問題、因果関係の問題、哲学という学問における抽象概念の使い方の問題などについて詳細に論じています。

因果関係(およびその他さまざまな「関係」)については、

ヒューム『人性論』分析:「関係」について
http://miya.aki.gs/miya/miya_report21.pdf

意志・欲望とは何か、という問題については、

価値・理念について議論するとはどういうことなのか
〜「なんのための」社会学か? の批判的検証を中心に

http://miya.aki.gs/miya/shakaigaku1.pdf
「意志」とは「言葉」
〜西田幾多郎著『善の研究』第一編第三章「意志」分析

http://miya.aki.gs/miya/miya_report15.pdf

時間や自我については、

哲学的時間論における二つの誤謬、および「自己出産モデル」 の意義
http://miya.aki.gs/miya/miya_report17.pdf
・・・で取り扱っています。

その他、様々な文献を分析したレポートを書いています。こちら(レポート・論文一覧)のページにあります。