2016年04月の日記


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デュエム=クワイン・テーゼの問題点(経験が様々な言葉で説明できる≠経験と言葉の結びつきに必然性はない)


logical cypher scape
http://d.hatena.ne.jp/sakstyle/

というブログの、

クワイン「経験主義の二つのドグマ」(現代哲学)
http://d.hatena.ne.jp/sakstyle/20071018/1192710768

という記事の分析です。

管理者のシノハラユウキ氏は、あくまでクワインの主張の説明をされているだけなので、
以下の私の批判的分析は、シノハラユウキ氏の書かれたクワインの見解へのものであって、
シノハラユウキ氏に対するものではありません。

(※ 以下、イタリックで示されている部分はブログ記事からの引用です。)

 
*****************************
 

以下のクワインの主張、

必然的な結びつきがないとするならば、ある言明なり理論なりはどのようにして決まるのか。
それはプラグマティックに決められる。
つまり、便利さ、単純さ、保守性などによってである。
分析的言明、だと思われている言明が、真であるのも、便利さ、単純さの故でしかない。
「1+1=2」が真であるのは、プラグマティックに真なのであって必然的に真なのではない。
それは、偽である可能性もありうる。ただ、もしそれが偽だとすると不便極まりないので、真ということにしているのである。
排中律などは、その代表であるといえる。
クワインのこの考えにしたがえば、神話と物理学との間に本質的な違いはない、ということになる。
物理学の方が神話よりも、説明するのに便利だから真とされているにすぎない。



・・・これはどう考えてもおかしいとしか言いようがない、とほとんどの人は思うのではなかろうか。実際、

このクワインの立場は極端なもの、というのが多くの見解らしく、多くの哲学者は分析的真理はあるという立場を維持しているらしい。ただし、その線引きが難しいことは認めている。



・・・ということらしい。

しかし(線引きが難しいが)「極端なもの」という見解では何の解決にもなっていない。クワインの主張における論理展開のどこに問題があるのか、それを明確に指し示すことが重要ではないかと思うのだが、分析哲学者たちが

クワインは、以下の二つのことを、何の根拠もないドグマにすぎないとして否定する
「分析的言明と総合的言明に本質的な違いがあること」
「言明は直接的経験をあらわす言語へと還元できること」



・・・というクワインの見解(とくに後者)を否定できない限り、クワインの主張の問題点を正確に指摘することはできないと思うのだ。

以下、(シノハラユウキ氏による説明に従う限りにおいてであるが)クワインの見解の問題点について具体的に指摘してみる。

 

1.言葉の定義がいかにして成立しているのか

分析的言明とは、必ず真になるような言明である。
それには、論理的なものと定義によるものがある。
定義によるものとは、例えば「独身者はみな結婚していない」である。
この言明は、「独身者」という言葉が「結婚していない者」という意味なので、必ず真(分析的)である。
つまり、ある言明が分析的かどうかは、意味についての探求によって明らかになるのである。
「Aの意味はBである」とはどういうことか。
「AとBは同義である」ということである。ここで、意味についての探求は同義性についての探求に代わる。



「結婚していない者」とは何であろうか?
そして「結婚」とは、「者」とは何でろうか?

「結婚」といっても様々な形があるので、一概には言えないが、
国や民族においてそれぞれに決められている(あるいはそうなっている)人間関係のあり方、状態を指している。
それはあくまで具体的事実のことである。
「結婚」とは、人間の具体的状態のことを指しているのである。

「者」とは人間であることは明らかであろう。私たちの世界のあちこちに実際にいる人間のことである。

そして「独身者」とは「結婚していない者」という言葉が指し示す状態にある人間のことを同様に指しているのである。

結局のところ、言葉の同義性が確保されるということは、同じ具体的事実を指し示している、ということなのである。

つまり、ある言明が分析的かどうかは、意味についての探求によって明らかになるのである。
「Aの意味はBである」とはどういうことか。
「AとBは同義である」ということである。ここで、意味についての探求は同義性についての探求に代わる。
ところが、この同義性について考えると、そこでは「分析性」ということが前提されていることがわかる。
「AとBは同義である」とは「「AはBである」*1が必ず真(分析的)である」ということになる。
分析的、ということを明らかにしようとすると、循環に陥ってしまうのである。



・・・というような「循環」などどこにもない、ということなのだ。

「同義である」から意味なのではない。
同じ経験的事実を指し示しているから「同義」であり、その経験的事実が「意味」であるのだ。


分析的言明と総合的言明に本質的な違いがあること」という見解は、確かに思い込みであると言える。ただそれは「分析的、ということを明らかにしようとすると、循環に陥ってしまう」からなのではない。

 

2.経験が様々な言葉で説明できることが、経験と言葉の結びつきに必然性はないことにはならない

ある経験に対して、それを説明する言明がただ一つとは限らず、他の言明が対応する可能性が必ずある。
そして、どの言明であるべきかは、何らかの必然性をもって定まってはいない。
このことを、デュエム=クワイン・テーゼと呼ぶ。



例えば、「TVが映っていない」という経験があるとする。普通は、「TVの電源が入っていない」という言明によって説明される。だが、「TVの電源は入っている、かつ停電している」かもしれないし、「TVの電源は入っている、かつ停電していない、かつ電波を受信していない」かもしれない。



一つの経験に対して、説明する方法はいくつもあり
一つの経験に対して、一つの言明ではなく、複数の言明が対応している。



・・・上記の事例における、「TVが映っていない」という経験、について、

・「TVの電源が入っていない」
・「TVの電源は入っている、かつ停電している」
・「TVの電源は入っている、かつ停電していない、かつ電波を受信していない」

というふうな言明も可能であるのは確かである。そして、実際に停電しているのか、とか電波を受信していないのかを確かめてより「正しい」認識は何なのか、明らかにしていくことができる。一方、

・「TVそのものが消えてしまった」
・「TVが空を飛んでいる」
・「TVが電源が食べている」

というふうな言明は不可能である(比喩的表現ではないことを条件として)。これらの言明に必然性はない。なぜなら経験の事実に反しているから。

特定の経験に対し、様々な側面から、様々な言葉を用いて説明は可能である。
しかし、これは「何でもアリ」なのとは違う。実際の経験によって支持されていない説明はやはり不可能なのである。

・日記を3日でやめてしまい「私はあきっぽいなぁ」と思うときもあれば、
・手編みのセーターを何着も作ることができて「私はけっこう根気があるなぁ」と思うときもあるかもしれない。

このように自分自身にも全く逆方向の性質があるかもと考えることができるし、それぞれが間違いではない実際の経験である。一方、

・好きでもないのに「私はテニスが好き」だとは言えないし、
・同様に好きでもないのに「私は山登りが好き」だとは言えない。

つまり、経験の事実としてないものは言明として成立などしないのだ。

必然的な結びつきがないとするならば、ある言明なり理論なりはどのようにして決まるのか。
それはプラグマティックに決められる。
つまり、便利さ、単純さ、保守性などによってである。
分析的言明、だと思われている言明が、真であるのも、便利さ、単純さの故でしかない。



・・・要するにクワインは、

経験が様々な言葉で説明できること=経験と言葉の結びつきに必然性はない

と勘違いしてしまった
のだ。

 

3.分析の方向性の誤り

私たちが目の前のものを見て「テレビ」だと思ったことは(実際に思ったのであれば)事実である。
経験と言葉とを結びつけたことは「事実」であって、論理によって肯定したり否定したりするものではない。
その経験と言葉とを結びつけた事実から始めて、

ある経験を特定の名前で呼んでいる
→なぜそれが可能になっているのか、あるいはそれが本当に正しいのか

という分析になっていくはずなのである。

ところが、分析哲学者たちは事実から始めるのではなく、
事実とは異なる思い込み的な論理から、現実ではないパラレルワールドのようなものを形成し、
現実が不可能である、という分析をしてしまうのである。

 


<関連記事>
論理学的誤謬(言葉の意味に関して)
http://miya.aki.gs/mblog/bn2016_04.html#20160406

 
2016.4.17[日]
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論理学的誤謬(言葉の意味に関して)


ミックのページ
http://www.geocities.jp/mickindex/index.html

にある、

心理主義批判――言葉の意味は心的イメージではない
http://www.geocities.jp/mickindex/wittgenstein/witt_other_mental.html

のページにおける説明は、言葉の意味は心像ではないという主張の典型例ではないかと思われる。そしてミック氏の見解はウィトゲンシュタインに依拠しているようである。

ミック氏の主張は、「論理学的誤謬」の一例であるように思える。
(昨年分析した入江氏の見解も同様である)

まず最初に、誤解を解いておかねばならないことは、

(1)心理主義とは哲学の根拠を心理分析あるいは心理学に求めようとすることであって、「言葉の意味は心的イメージ」(あるいは心像)であるという主張を心理主義と混同してはならない

ということである。そして、

(2)言葉の意味は「論証」によって明らかになることではない。あくまで「事実」の記述・説明であるということ

も付け加えておかねばなるまい。「事実」として私たちの経験として現れていることを「論証」によって否定することはできない、ということなのである。

「事実」→形式論理であるのに、
「論証」→事実の説明をしようとする。そして「事実」と齟齬を生じて「パラドクス」「無限後退」を生み出す

・・・これが「論理学的誤謬」である。


以下、ミック氏の見解を具体的に分析してみる。ミック氏の文章の引用はイタリックで示してある。

 
***************************
 

(1)言葉=公共性という思い込み

1.言葉の意味が心像であるとすれば、それは必ず公共的に観察できる見本や絵などの具体像に置き換えられる。
なぜなら心像と具体像の違いは、その表現媒体が違うだけなのだから、心像⇔具体像の変換は常に行ってよいからです。心像でしか表現できないもの、具体像でしか表現できないもの、というものはありません。



・・・ミック氏の説明に反して、「言葉の意味が心像である」ことが「必ず公共的に観察できる見本や絵などの具体像に置き換えられる」とは限らないのである。

例えば、ある時に突然なんとも言えない感覚に襲われたとする。この感覚に「X」という名前を付ければ、その感覚が「X」という言葉(名前)の「意味」になるのである。この感覚は見本で示すことはできないし置き換えることもできない。理屈で説明もできない。しかし「X」という感覚は確かにあったのだ。その感覚が自分の中で再現される可能性はあるかもしれないし、ないかもしれない。あるとき、また何かを感じて「あのときのXだ」と確信することもあるかもしれない。

ミック氏には、言葉=公共性という思い込みがあるのではなかろうか。公共性があろうとなかろうと言語は成立しうるのだ。そして「心像でしか表現できないもの、具体像でしか表現できないもの、というものはありません」とはいったい何を根拠にそう述べているのだろうか?

 
(2)「解釈方法」「規則」は具体的心像から事後的に導き出されるもの

2.絵や見本などの具体像が言葉の意味だとすれば、その適用方法(解釈方法)も含まれていなくてはならない。
さもないと、絵を見てもそれが何の絵なのか理解できません。ちょうど抽象画を見てもそれが何の絵なのか分からないように。それでは絵が言葉の意味だとは言えません。絵が言葉の意味であるためには、「この絵は〜を表している」という解釈が必要です。



・・・ミック氏の認識はひっくり返ってしまっているのだ。

ある具体像を見て「リンゴだ」と思うとき、その「理由」が必ずしも明確に私たちに与えられているとは限らないのだ。ミック氏は「適用方法(解釈方法)も含まれていなくてはならない」と述べられているが、果たして「リンゴだ」と思うとき、それが何らかの「適用方法(解釈方法)」によって生じていると「常に」断言できるであろうか?

しかし一方で、目の前の物(あるいは絵や映像など)を見て「リンゴだ」と思ったことは「事実」である。心像や具体像と言葉とが結びついたことは「事実」であって、それは「論理」で否定できるようなことではないのだ。

その具体像と言葉が結びついたという「事実」から始めた上で、

ある具体像を見て「リンゴだ」と思った→その理由を問う→「色」や「形」「香り」「質感」などの”規則”がその理由として考えられる

というふうに、ミック氏の言われる「解釈方法」・ウィトゲンシュタインの言う「規則」はあくまでもその具体像から事後的に引き出されるものなのである。その具体像を詳細に観察した上で導かれるものなのだ。しかし、本当に「色」を見て「リンゴだ」と思ったのか、「香り」を嗅いで「リンゴだ」と思ったのか、そこは究極的には可疑的なのである。私たちの知らないリンゴの「何か」が私たちに「リンゴだ」と思わせた可能性も、厳密には否定できないのである。

さらに言えば、その「色」や「形」「香り」「質感」、例えば「赤」や「甘酸っぱい香り」などの言葉の「意味」とは何であろうか? それはやはり私たち個人個人の具体的経験、感覚やら心像なのである。「解釈方法」「規則」もその根拠を辿っていけば、結局私たちの具体的経験に行きついてしまうのだ。そこに「無限後退」というものもないのである。

 
(3)結局言葉と絵とを結び付けている/自分が言葉を理解することと、他人が言葉を理解しているかどうか確認することとを混同してはならない

3.だが絵や見本には、常に、多様な解釈が可能であり、唯一の解釈があるわけではない。




・・・絵に多様な解釈が可能であることが、なぜ言葉の意味が心像であるということの否定になるのであろうか? ミック氏は下の絵を例に挙げて説明されている。



 さて、この絵を見たウィトゲンシュタインは次のように言います。



 私はある像を見る。それは一人の老人がステッキをついて急な山の斜面を登っている様子を描いたものである。――それはどのようにしてその事実を表しているのか? 老人がその姿勢で山を降りているとしても、やはり像はそのように見えるのではないか? ひょっとして火星人なら、その像を老人が山を降りている像として記述するかもしれない。しかし私は、なぜ私たちがこの像を火星人のように記述しないかの理由を説明する必要がない。(『哲学探究』第139節)



 火星人というのは「文化的背景が劇的に異なる人物」の喩えです。同じ絵でも、異なる二人が見れば、異なる解釈の仕方がありうる、というのが本質的なポイントです。この議論と類似の例として、有名な「うさぎアヒル」や「老婆と若い婦人」の絵などを、多くの人が見た経験があるでしょう。
 このことから、絵や見本には無数の解釈がありえることが分かります。だから、異なる二人の人間が同じ語に出会い、同じ心像を心に抱いたとしても、一人は「山に登る老人」として心像を解釈し、もう一人は「山を滑り落ちる老人」として解釈する、ということも十分ありえます。



・・・ある人にとっては「一人の老人がステッキをついて急な山の斜面を登っている様子」であり、ある人にとっては「老人が山を降りている像」であるのだ(もしそう思う人がいたならば)。ただそれだけのことだ。そして上記の説明においてミック氏もウィトゲンシュタインも言葉と絵とが結びついているという「事実」を既に認めてしまっているのだ。そこに気づいておられるだろうか?

その絵と「一人の老人がステッキをついて急な山の斜面を登っている様子」「山に登る老人」「山を滑り落ちる老人」という言葉・言語的表現とを結び付けている、それは疑いようもない事実である、ということなのだ。絵と言葉とが結びついているという”事実”を認めた上で、それらの認識が正しいのかどうか初めて分析可能となるのである。

Aさんが上の絵を見て「一人の老人がステッキをついて急な山の斜面を登っている様子」と思い、Bさんが「山を滑り落ちる老人」と思い、お互いに話合ってみれば、「あぁそういうふうにも見えるね」あるいは「私にはそうは見えないね」と感じるであろう。そういうふうに、同じ絵(とAさんBさんによって信じられているもの)を見ながら、お互いに何に見えるかを話し合いながら、言葉と心像との関係を構築・変更しているのだ。ただそれだけの話である。

二人が同じ心像を持ったからといって、両者にとってその言葉の意味が同じであるとは言えません。もしこれを認めれば、同一の語の意味が個々人によって異なる、という破壊的な結果を受け入れなければなりません。それでは意思疎通など不可能です。



・・・既に述べたように、同じ心像に様々な「名前」が付く可能性は「破壊的な結果」など導かないのである。一つのものには様々な側面がある。一つのものは、様々な言葉・概念で説明できる。この多様性を他者との会話の中で獲得しながら、その「一つのもの」の「全体像」を構築していくのだ。

そして、ひょっとしてミック氏が説明しきれなかったと思われる、もう一つの問題、

同じ言葉を指す心像が私と他人とでは異なる可能性があるのではないか

・・・についてであるが、重要なことは、以下の(1)と(2)とを混同しないことだ。

(1) 私自身が言葉を「理解」したこと
(2) 他人が言葉を「理解」しているかどうか確認すること

(1)は、言葉と経験(心像やら感覚やら)との対応関係を認めた、ということである。
(2)は、他人がその言葉を正確に使えているか、その言葉に対応する具体的対象(物、あるいは可能な限り感覚など)で示せるか、その言葉を別の言葉で上手く説明できるか、ということである。


私自身が理解するということは、言葉と経験(具体的心像など)が結びつくことである。しかし、他人の心像を覗いて見る術はない。同じ「リンゴ」でも私に見えている「リンゴ」と他人に見えている「リンゴ」とが同じである保証もない。

しかし、私自身が抱いている「リンゴ」の心像によって導かれている「規則」(というよりリンゴの「要素」というべきか)を根拠に、他人の説明と照合しながら他人の言語理解を確認することが可能となっているのだ。

 

4.だから絵や見本は、言葉の意味ではない。連鎖的に、心像も言葉の意味ではない。




・・・つまり、このミック氏の見解は誤りであるということなのだ。言葉と絵や見本との対応関係をミック氏ご自身も認めておられる。この「事実」は疑いようもないのだ。

 

心理主義からの反論
 ここで、心理主義の側から反論が起こるかもしれません。それは、「語の意味は心像だけでなく、心像と投影法(解釈の仕方)の両者から成るのであって、語の意味を理解することは、心像とその投影法との二つが心に浮かぶことである、とすれば心像の解釈も唯一つに決まる。心理主義でも問題ないではないか」というものです。




・・・この反論自体が不正確なものであることは、これまでの私の説明から理解いただけるであろうか?

 

(2016.4.6[水])

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