2017年07月の日記


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カント理論は単なる「仮説」にすぎず、その正当性・根拠を明らかにしようとすれば、結局ヒューム的因果関係把握に頼らざるをえない


藤井誠著「因果律について : ヒュームとカント」『哲学論文集』8、九州大学哲学会、1972年、pp. 55-71

・・・分析の続きです。

 
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「対象が我々の認識に従って規定されねばならぬ」と想定すれば・形而上学の諸課題がうまく解決されるとカントは言うのである。ここに書う課題とは ア・プリオリな認識即ち「対象が我々に与えられる前に対象について何ごとかを確定するような認識」の可能性を根拠づけることであるが、この課題を解決する方策は、要するに「経験そのものは悟性を要求する認識の一つの仕方であるが、悟性規則を私は自分自身 のうちに、まだ私に対象が与えられない前に、従ってア・プリオリに前提していなければならない。そしてかかる悟性規則はア・プリオリな悟性概念によって表現されるものであるから 、あらゆる経験の対象は必然的にかかる悟性概念によって規定され、またそれと一致しなければならない」と想定することにあると言える。かかる想定によってはじめて我々が可能的経験の対象をア・プリオリに認識する可能性が根拠 づけられるとカントは言うのである。従ってかかる想定の下でのカントにおけるObjektは、もはやヒュームにおけるobjectのように単に心によって観察さるべき所与として心の作用から独立し且つその前にあるものではなく、むしろ悟性の作用に依存 し且つその後にあるものと言わねばならぬであろう。(藤井氏、69〜70ページ)



・・・そもそも可能的経験とはいったい何なのか? 要するに推測される経験であって、所与の経験そのものではない。

また、上記の説明でも明記されているように、カントの理論はあくまで「想定」である。しかしそのような「想定」を支える根拠とはいったい何なのであろうか?

そもそも、「あらゆる経験の対象は必然的にかかる悟性概念によって規定され、またそれと一致しなければならない」と常に言えるのか? 私たちはあるものを見て、それに対応する言葉を思いつくこともあれば思いつかないこともある。全くそのものを表わす言葉を知らないこともある。常に「経験の対象」が「悟性概念」なるものに規定されている必要はないのだ。

あるいは、目の前のものを見て「リンゴだ」と思ったとする。経験と概念(=言葉)とが繋がったわけである。ここまでは実際の具体的経験として現れている。しかし、何か見えたそのものと「リンゴ」という概念とが繋がったメカニズム、「心の作用」といったものは具体的経験として現れて来てはいない。

もちろん、そのメカニズムをカント理論のような「想定モデル」「仮説モデル」で説明することは可能である(それが「正しい」かどうかは別にして)。しかし、その「想定」「仮説」は何によって根拠づけられるのか、ということなのだ。

・・・結局のところ、それらのモデルを検証するためにヒューム的因果関係把握に頼るしかないのである(実際に検証できるかどうかは別にして)。具体的経験と具体的経験との関係を(主観的に)認め、それらを繋げてストーリーを作り上げ、仮説モデルの正当性について説明を試みるしかないのである。そして、そこに果たして「客観的必然性」というものは見出せるのだろうか・・・?

一方、ヒュームの見解は以下のようなものである。

周知の如くヒュームは人性の学の探究において採用した方法は『人性論』の副題に見られるように経験と観察に訴えるところの「実験的論究方法」 (the experimental Method of Reasoning)である。ヒュームは言う「この〔人間〕学そのものに与え得る唯一の堅固な根砥は経験と観察とに依存しなければならない」と。何故ならば、「心 の本質は外物のそれと等しく我々には未知である。従って細心且つ正確な実験によらない限り、〔中略〕心の種々の力能及び性質に関する何等かの思念を形成することは外物の場合と等しく不可能であるに相違ない」からである。かかる方法の下でのobjectとは 、第二章で見たように心によって観察さるべき所与として心の作用から独立し且つその前にあるものであった。これがヒュームにおけるobjectを「客観」と訳さず、敢えて「事物」と訳す所以である。(藤井氏、69ページ)



・・・そもそもが「心の作用」(あるいは「心の本質」)というものは、具体的経験として現れることはない。カントのように「想定」するしかないのである。

私たちには経験そのものしか与えられていない。それが「悟性」なるもの、あるいは別の「何か」によって規定されたり影響された結果のものなのか、あるいは何らかのメカニズムによって生じたものなのか、そんなこと経験そのものは何も語ってなどいないのだ。それらは経験と別の経験とをつなぎ合わせ、ヒューム的因果関係構築によって初めて明確になっていくものなのである。それは「心の作用」についても同様である。

心的作用⇒経験、ではない。
経験⇒(ヒューム的因果関係構築)⇒心的作用の想定、なのである。

ちなみに、ヒュームの言うobjectは、「心の作用」から独立している所与である、というところから、まさに純粋経験の概念に通じるものがあるように思える。より正確には「心によって観察」されているという認識それ自体さえエポケーしたものが純粋経験なのであるが・・・

 
 
(2017.7.18[火])
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因果律に関してはヒュームが答えを出してしまっている


藤井誠著「因果律について : ヒュームとカント」『哲学論文集』8、九州大学哲学会、1972年、pp. 55-71

・・・を読んでみた。

因果関係に関しては、

不確定性で因果関係の必然性の問題は説明できない
http://miya.aki.gs/mblog/bn2016_10.html#20161020

・・・でも説明したのだが、一つの事象・出来事のみを見ても「必然性」の謎は解けないのである。客観性はあくまでも主観の積み重ねによってもたらされるものなのであって、単なる主観的印象である因果性把握の事例一つのみをいくらこねくり回しても、因果律の必然性の根拠が見つかることなどないのだ。

上記の藤井氏の論文を読む限り、ヒュームは因果性について既に答えを出しているように思える。

因果性の観念は、かくて「事物の或る関係から来なければなるまい」。かかる関係としては「接近」(contiguity)、「継起」(succession)及びそれらの「恒常的連接」(constant conjunction)が見出されるだけである(藤井氏、58〜59ページ)



・・・これがまさに因果性の客観的必然性のことなのである。既に述べたように、そもそもが客観性とは主観の積み重ねでしかない。その主観的に見て取られた事実が「恒常的」なものであれば、それが必然である、ということなのだ。まさにこれが科学的客観性なのである。要するに、事象の繰り返し、再現可能性ということである。

それで良いのに、藤井氏・カントは「完全無欠」を因果性に求めてしまっているのである。

これらは因果性の完全無欠な観念を供与するものではないであろう。何故ならば、因果性の本性は原因と結果の「必然的結合」(necessary connection)にあるからである。「恒常的連接」の含意するところは高々「似寄った事物がこれまで常に似寄った接近及び継起の関係に置かれていた」という単なる過去の経験における接近と継起の反復即ち蓋然的結合に過ぎない。従って、たとえ二つの事物がこれらの関係にあったとしても、尚お且つ原因・結果とは考えられぬこともあり得るであろう。そうすると、かかる恒常的連接からは(たとえその反復が無際限に行われようといも)原因と結果の必然的結合という新しい観念は生じそうもないと言わねばなるまい。(藤井氏、59ページ)



・・・絶対的に「正しい」という因果関係などどこに見つかるであろうか? 藤井氏は絶対的真理としての因果関係を求めてしまっているのである。そんなもの見つかろうはずもない。「原因と結果の必然的結合という因果性の本性」(藤井氏、59ページ)という見解がそもそも的外れなものなのである。

ヒュームは、さらに以下のように説明している。

「頻繁な反復ののち私は見出すが、事物の一つが出現すると、心は該事物に日ごろ伴うものを考えるように、しかもこの日ごろ伴うものを最初の事物との関係のために強く照らしだして考えるように習慣によって限定されるのである」。ヒュームによれば我々はかかる心的限定即ち心の習慣的移行を感じる(feel)のである。この感じは「心の内的印象」(internal impression of the mind)即ち「内省の印象」であるが、かかる印象こそ必然性の観念の起源である。(藤井氏、61ページ)



・・・日常生活における因果性の必然性感覚に関しては上記の説明で十分であろう。これを単なる「印象」とせず、他の人にも把握できるように数値化したり、実験による反復化を可能とすることで科学的な客観性が成立しているのだ。簡単にまとめると、科学的客観性とは、

・いつもそうなる
・誰が見てもそうなる

という条件をできる限り成立させようとする試みのことなのである。当然それは絶対的真理ではない。

かかる必然性の検討はヒュームをして我々の現実的経験を越えた事実に関する知識 (観念)が絶対確実な絶対的知識ではなく、蓋然的知識 (信念) に過ぎないという結論へと導くのである。(藤井氏、62ページ)



・・・まさにこれが因果関係の客観的必然性のことなのである。カントは、

因果律は「疑うべからざる客観的正当性」(ungezweifelte objektive Richtigkeit)をもつものである。(藤井氏、63ページ)



・・・というふうに不可疑的な絶対的真理を客観的必然性と取り違えてしまっているのだ。

 「或る出来事よりも前にこの出来事を規則に従って継起せしめるようなものがまったく存在しない」と仮定すると、我々にはもはや覚知における継起しかないことになる。しかしそれは一つの現象(例えば船のそれ)を他の現象(例えば家のそれ)から時間関係上区別する何ものをももたぬであろう。したがってそれは単なる主観的な「表象の戯れ」(Spiel der Vorstellungen)に過ぎず、何ら客観を規定するものではないであろう。それ故に我々が客観的継起即ち或るものの生起を経験する場合には、何か或るものが生起するものより前にあり、生起するものは規則に従ってそのものについて継起する」端的に言えば「およそ生起するものは原因をもつ」という因果律を常に前提としおり、かかる前提の下ではじめて我々は客観的継起を経験することが可能なのである。因果律はかかるものであるから、それは多くの生起するものの経験から帰納されて発見されるようなア・ポステリオリな規則ではなく、むしろもともと「経験そのものの基礎になっており、ア・プリオリに経験よりも前にあった」ものである。かかるものとして因果律は対象(生起するもの)一般の表象を可能にする「可能的経験の根拠」(Grund möglicher Erfahrung)である。(藤井氏、66〜67ページ)



・・・この見解はまったくもって転倒しているとしか言いようがない。規則があろうとなかろうと原因があろうとなかろうと、まず経験は現れて来るものなのである。規則とはあくまでそれらの経験を事後的につなぎ合わせて導かれたものでしかないのだ。結局のところ上記の説明は、

原因がなければ経験などありえないから因果関係はア・プリオリなのだ
因果関係によって何事も生起しているのだから因果関係は必然なのだ

・・・と言っているにすぎない。あるからあるのだ!と繰り返しているにすぎず、何の根拠づけにもなっていないのだ。

規則や原因がないのだ、と言っているわけではない。まずは経験がいやおうなしに現れてくる。それらを事後的に結び付けたものが因果関係なのである。つまりア・プリオリなものなのではなく、あくまで「経験から帰納されて発見されるようなア・ポステリオリな規則」なのである。規則がなければ経験が生じないという根拠はいったいどこにあるのか?そんな決まりはいったい誰が決めたのか? 原因がなければ経験が生じないといったい誰が決めたのか?

・・・そもそもそういった考え自体が「経験則」から来ているものなのである。これまでの経験において規則性というものが(分析の結果、事後的に)見出された、あるいは、ある経験の前に常に特定の経験がある、といった過去の経験の集積から導かれた論理(=経験則)をその他の経験にも適用(演繹)しようとしているだけなのである。

 
 
(2017.7.17[月])
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大森荘蔵の限界は経験主義を徹底できなかったこと


ピエール・ボネールス、森永豊著「大森荘藏の論理学の哲学 : 論理学における必然性とその経験的性格」『比較文学・文化論集』 31号、東京大学比較文学・文化研究会、2014年、pp. 15-30

・・・を最後まで読んでみました。ボネールス氏・森永氏が非常にわかりやすくまとめてくださっているので助かります。これがすべてではないのでしょうが、大森氏の見解の大まかな方向性を知ることができました。

 
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竹田青嗣著『プラトン入門』(ちくま新書)からの引用である。

大森荘蔵によれば、このゼノンの難問については、「現在まで誰もこのパラドクスを、解いていない」(『音を視る・時を聴く』坂本龍一との対談)。だが大森荘蔵の言葉は、彼ほどの現代哲学者にしてなお、ゼノンのパラドクスが象徴する哲学固有の「難問」の意味がつかまれていないことを示している。(竹田青嗣著『プラトン入門』ちくま新書、36ページ)



・・・竹田氏は、ゼノンのパラドクスは、

“ 概念を実体的なイメージにしたがって操作すること”につきまとう、「実体化の錯誤」(竹田氏『プラトン入門』40ページ)



・・・によって生じているとしている。このあたりの話は、

「イデア」こそが「概念の実体化の錯誤」そのものである 〜竹田青嗣著『プラトン入門』検証
http://miya.aki.gs/miya/miya_report11.pdf

・・・で私が詳細に分析している。簡単に説明すると、ゼノンのパラドクスは、竹田氏の言われるように“ 概念を実体的なイメージにしたがって操作すること”から生じるのではなく、むしろ、概念(言葉)とその対象物(実物やらイメージなどの経験、つまり言葉の意味)とをきちんと対応させていないことから生じるパラドクスなのである。

要するに”言葉の意味の混同”、”言葉の意味のすり替え・捻じ曲げ”によってもた らされた”論理の飛躍”、”詭弁”なのである。全く違う意味の表現を混同することによって、あるいは現実と異なる論理を差し挟むことによってパラドクスが導かれているのである。

・・・つまり、大森氏がゼノンのパラドクスを解くことができないのは、彼が経験主義だったからではなく、経験主義を徹底できなかったことにあるのではないか、と考えられるのである。

 
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大森氏は、論理学でさえも「日常言語の意味の揺らぎ、日常言語における各語の使用規則の多様性の影響を受ける」(ボネールス氏・森永氏、29ページ)ことから逃れられないことを指摘している。さらには、

 そしてもうひとつは、論理学の経験的性格である。論理学の各文が必然的に正しいことは、徹頭徹尾、経験と無関係(ア・プリオリ)なのではなく、経験を通じて事実の確定性を了解することに由来する。(ボネールス氏・森永氏、29ページ)



ここで大森が言っているのは、われわれが語同士の関係として規則を打ち立てるためにも、所与の事実を経験している必要があるということである。すなわち、実際の赤さと青さが同時に同じ場所で成立していることがないということが経験によって与えられていることが、「赤いものは青くない」という言語規則をたてる以前にあるということである。(ボネールス氏・森永氏、26ページ)



・・・とさえ主張しているのである。まさにそのとおりである。この見解を徹底していれば、上記のゼノンのパラドクスのどこに問題があるのか、すぐに分かるはずなのである。

それにもかかわらず、

大森は論理(学)的な文が経験的内容を表現したものであるとは言わない。論理(学)的な文は、あくまでも語の使用規則を述べたものであり、規則がどうあるかは事実がどうあるかとは無関係である。そして大森は、経験主義に立ちながらも必然性の在り処を言語の内部で働く使用規則において確保しようとする。(ボネールス氏・森永氏、29ページ)



・・・これはどう考えてもおかしい。経験主義を貫くのであれば。言語内部の使用規則でさえ、経験から導かれるものだと考えるのが当然ではないのか。

ボネールス氏・森永氏は、

われわれが直面した不整合、すなわち、言語規則の必然性が「事実の動かしえなさ」と「事実からの独立性」という二つの由来を持つことの一見した不整合は、どのように捉え直されることになるのか?われわれが試みている解釈において、大森の説明は、「言語規則という意味での必然性」と「事実の確定性という意味での必然性」という異なる必然性の概念に依拠して論理学における必然性の由来を述べることで、事実との関係についての一見した不調和を回避している。(ボネールス氏・森永氏、28〜29ページ)



・・・としているが、不調和は全く回避などされていない。言語規則が事実に依拠するということを大森氏自身が指摘してしまっているからである。

以下の見解も、事実から独立した言語規則の必然性というものの説明に失敗していると言わざるをえない。

たしかに、言語は世界のコピイである。そうでなくては世界を描写できない。しかし、言語は写真が世界のコピイであるというのと同じ意味でのコピイではない。言語は絵具のパレットが世界のコピイ、世界の色彩のコピイであるという意味でのコピイである。パレットの絵具は世界の色彩を表現できるように選ばれねばならない、つまりパレットの選択は世界によって決定される。しかし、パレットの絵具相互の間の関係(赤と青を混ぜれば紫というような)絵具内部の問題であり、どのような関係があるかを見るのに世界を研究する必要はなく、絵具の間だけの関係を見ればよい。同様に、言葉相互の間の意味関係は言語内部の問題であり、それによって論理的当否が判定されるのである。(ボネールス氏・森永氏、25ページ:大森荘蔵著「記号の特質と論理操作」『大森荘蔵著作集 第二巻 前期論文集2』岩波書店、225ページからの引用)



・・・明らかに大森氏は、「赤と青を混ぜれば紫」という因果関係的事実と言語の問題とを混同してしまっている。

赤の絵具という実物があり、それに「赤の絵具」という「言葉」が対応している。「青の絵具」という言葉とそれに対応する実在物がある。そしてそれらの実在物を混合すると別の色になり、その色に「紫」という名前が付けられている。そういうことである。

あくまで、どこまでも言葉同士の関係は実在物・事象、あるいは経験同士の関係と対応しているのである。

 
 
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大森荘蔵氏の『時は流れず』といった著作にも興味が出てきました。私も「時間など流れていない」という見解ですが、大森氏とどこまで共通している部分があるのか、そのうち検証してみたいです。

 
2017.7.16[日]
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「これまでの経験上常に正しかった事実」のことを、「事実独立的」と取り違えている


ピエール・ボネールス、森永豊著「大森荘藏の論理学の哲学 : 論理学における必然性とその経験的性格」『比較文学・文化論集』 31号、東京大学比較文学・文化研究会、2014年、pp. 15-30

・・・の分析です。
 
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大森荘蔵は経験主義に立つがゆえに、論理学の文が正しいことの必然性を経験に基づいて説明する課題を負っている。(ボネールス氏・森永氏、15ページ)



・・・しかし大森氏はこの姿勢を徹底できなかったようである。

今日は時間がないので、後日じっくり説明するとして、ボネールス氏・森永氏の最大の間違いは、

「これまでの経験上常に正しかった事実」のことを、「事実独立的」と取り違えていることである。

論理とはあくまで「経験則」である。それ以上でもそれ以下でもない。

この文を「明日は晴れるか、または明日は晴れない」という形に換えてみよう。一読して明らかであると思われるが、この文の正誤の判断にとって、この文が示す事態が現実の状況と一致することは問題にならない。この文は、明日になって実際に晴れていようがなかろうが真である。「論理的に正しい」とは、「明日は晴れるか、または明日は晴れない」のように世界の状況とは独立に真偽が定まる文について言われるもののことである。(ボネールス氏・森永氏、16ページ)



・・・この全くの”勘違い”が現在の哲学(さらには論理学や数学)において”当たり前”のことのように思われてしまっているのだ。

天気について述べるとき、「晴れる」「晴れない」というそれぞれの事態・具体的事実が実際にあり、上記の文章の説明が具体的事実と常に合致している、と確信されているからこそ、その文が「正しい」と思われるのである。

常にそうであると確信されているからこそ、いちいち具体的事実を挙げるまでもなく正しいのだ、と言えるのだ。

(ただ厳密に考えると、雲がかなり出ているが少しだけ晴れ間も見れるとき「晴れ」なのか「晴れでないのか」判断がつきかねる場合があるかもしれない。さらに天気予報では「晴れ」でもスモッグや大気汚染で霞んでしまったとき「晴れ」ていると言えるのか・・・このように判断がつきかねるような経験が生じる可能性もある。”常に正しい”と思っていても、それが新たな経験により覆される可能性も常に有しているのだ。そして「晴れ」という言葉の意味・定義も新たな経験によって変化していく可能性がある。)

「事実独立的」に「正しい」と言える論理などない。論理が「正しい」かどうかは常に「経験」によって確かめられるものなのだ。そして、論理学は哲学の「道具」ではなく哲学の「対象」であるの記事(※すみません、リンク切れです)で既に述べているように、論理そのものが「正しい」と判断できる根拠(つまり論理学的正誤判断の根拠)と、推論そのものの無根拠性は厳密には峻別する必要がある。

 
 
2017.7.9[日]

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