ピエール・ボネールス、森永豊著「大森荘藏の論理学の哲学 : 論理学における必然性とその経験的性格」『比較文学・文化論集』 31号、東京大学比較文学・文化研究会、2014年、pp. 15-30
・・・を最後まで読んでみました。ボネールス氏・森永氏が非常にわかりやすくまとめてくださっているので助かります。これがすべてではないのでしょうが、大森氏の見解の大まかな方向性を知ることができました。
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竹田青嗣著『プラトン入門』(ちくま新書)からの引用である。
大森荘蔵によれば、このゼノンの難問については、「現在まで誰もこのパラドクスを、解いていない」(『音を視る・時を聴く』坂本龍一との対談)。だが大森荘蔵の言葉は、彼ほどの現代哲学者にしてなお、ゼノンのパラドクスが象徴する哲学固有の「難問」の意味がつかまれていないことを示している。(竹田青嗣著『プラトン入門』ちくま新書、36ページ)
・・・竹田氏は、ゼノンのパラドクスは、
“ 概念を実体的なイメージにしたがって操作すること”につきまとう、「実体化の錯誤」(竹田氏『プラトン入門』40ページ)
・・・によって生じているとしている。このあたりの話は、
「イデア」こそが「概念の実体化の錯誤」そのものである 〜竹田青嗣著『プラトン入門』検証 http://miya.aki.gs/miya/miya_report11.pdf
・・・で私が詳細に分析している。簡単に説明すると、ゼノンのパラドクスは、竹田氏の言われるように“ 概念を実体的なイメージにしたがって操作すること”から生じるのではなく、むしろ、概念(言葉)とその対象物(実物やらイメージなどの経験、つまり言葉の意味)とをきちんと対応させていないことから生じるパラドクスなのである。
要するに”言葉の意味の混同”、”言葉の意味のすり替え・捻じ曲げ”によってもた らされた”論理の飛躍”、”詭弁”なのである。全く違う意味の表現を混同することによって、あるいは現実と異なる論理を差し挟むことによってパラドクスが導かれているのである。
・・・つまり、大森氏がゼノンのパラドクスを解くことができないのは、彼が経験主義だったからではなく、経験主義を徹底できなかったことにあるのではないか、と考えられるのである。
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大森氏は、論理学でさえも「日常言語の意味の揺らぎ、日常言語における各語の使用規則の多様性の影響を受ける」(ボネールス氏・森永氏、29ページ)ことから逃れられないことを指摘している。さらには、
そしてもうひとつは、論理学の経験的性格である。論理学の各文が必然的に正しいことは、徹頭徹尾、経験と無関係(ア・プリオリ)なのではなく、経験を通じて事実の確定性を了解することに由来する。(ボネールス氏・森永氏、29ページ)
ここで大森が言っているのは、われわれが語同士の関係として規則を打ち立てるためにも、所与の事実を経験している必要があるということである。すなわち、実際の赤さと青さが同時に同じ場所で成立していることがないということが経験によって与えられていることが、「赤いものは青くない」という言語規則をたてる以前にあるということである。(ボネールス氏・森永氏、26ページ)
・・・とさえ主張しているのである。まさにそのとおりである。この見解を徹底していれば、上記のゼノンのパラドクスのどこに問題があるのか、すぐに分かるはずなのである。
それにもかかわらず、
大森は論理(学)的な文が経験的内容を表現したものであるとは言わない。論理(学)的な文は、あくまでも語の使用規則を述べたものであり、規則がどうあるかは事実がどうあるかとは無関係である。そして大森は、経験主義に立ちながらも必然性の在り処を言語の内部で働く使用規則において確保しようとする。(ボネールス氏・森永氏、29ページ)
・・・これはどう考えてもおかしい。経験主義を貫くのであれば。言語内部の使用規則でさえ、経験から導かれるものだと考えるのが当然ではないのか。
ボネールス氏・森永氏は、
われわれが直面した不整合、すなわち、言語規則の必然性が「事実の動かしえなさ」と「事実からの独立性」という二つの由来を持つことの一見した不整合は、どのように捉え直されることになるのか?われわれが試みている解釈において、大森の説明は、「言語規則という意味での必然性」と「事実の確定性という意味での必然性」という異なる必然性の概念に依拠して論理学における必然性の由来を述べることで、事実との関係についての一見した不調和を回避している。(ボネールス氏・森永氏、28〜29ページ)
・・・としているが、不調和は全く回避などされていない。言語規則が事実に依拠するということを大森氏自身が指摘してしまっているからである。
以下の見解も、事実から独立した言語規則の必然性というものの説明に失敗していると言わざるをえない。
たしかに、言語は世界のコピイである。そうでなくては世界を描写できない。しかし、言語は写真が世界のコピイであるというのと同じ意味でのコピイではない。言語は絵具のパレットが世界のコピイ、世界の色彩のコピイであるという意味でのコピイである。パレットの絵具は世界の色彩を表現できるように選ばれねばならない、つまりパレットの選択は世界によって決定される。しかし、パレットの絵具相互の間の関係(赤と青を混ぜれば紫というような)絵具内部の問題であり、どのような関係があるかを見るのに世界を研究する必要はなく、絵具の間だけの関係を見ればよい。同様に、言葉相互の間の意味関係は言語内部の問題であり、それによって論理的当否が判定されるのである。(ボネールス氏・森永氏、25ページ:大森荘蔵著「記号の特質と論理操作」『大森荘蔵著作集 第二巻 前期論文集2』岩波書店、225ページからの引用)
・・・明らかに大森氏は、「赤と青を混ぜれば紫」という因果関係的事実と言語の問題とを混同してしまっている。
赤の絵具という実物があり、それに「赤の絵具」という「言葉」が対応している。「青の絵具」という言葉とそれに対応する実在物がある。そしてそれらの実在物を混合すると別の色になり、その色に「紫」という名前が付けられている。そういうことである。
あくまで、どこまでも言葉同士の関係は実在物・事象、あるいは経験同士の関係と対応しているのである。
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大森荘蔵氏の『時は流れず』といった著作にも興味が出てきました。私も「時間など流れていない」という見解ですが、大森氏とどこまで共通している部分があるのか、そのうち検証してみたいです。
(2017.7.16[日])
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