2018年02月の日記


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言葉と経験は、神尾氏の言われる「断絶」などおかまいなしに、自ずから繋がってしまっている


神尾和寿著
「純粋経験」の言語化の可能性と必然性をめぐって
『流通科学論集─人間・社会・自然編─』第28巻第2号、43〜66ページ

・・・の分析です。

***************

純粋経験が「未分―分化ー再合一(未分)」(神尾氏、53ページ)という「統一運動」(神尾氏、53ページ)をしているのではなく、西田がそう言い表した精神現象が、純粋経験の具体的事実としていかに現れているのか、そこが問題なのである。

結局、知覚やら心像やら情動やら言語やらの具体的経験としてしか現れていない、これが純粋経験の具体的事実なのであって、そこに「主体」「形而上学的主体」「観念的主体」「超越論的主観性」という具体的経験はどこにも表れていない、それが「純粋経験の主客未分」なのである。

結局のところ、「純粋経験を唯一の実在としてすべてを説明して見たい」というこの著の動機にして目論見の真意が、徹底的に問い直されねばならなくなってくる。「すべてを説明し」得るほどの「唯一の実在として」、「純粋経験」は本当に妥当するのかどうか。妥当するというのならば、どのような仕方によってなのか。そして、その場合には、「唯一の実在」とか「すべて」とか「説明」といった事態はどのようなことになるのか。(神尾氏、54ページ)



・・・「純粋経験を唯一の実在としてすべてを説明して見たい」という西田の見解に問題があることは確かである。そもそも「すべてを説明する」とは何なのだろうか? 私たちにはいまだ分からないことがたくさんある。それなのに哲学においていきなり「すべて」が説明できるようになるはずもないのである。

そうではなくて、西田自身が言っているように、

如何なる精神現象が純粋経験の事実であるか。感覚や知覚がこれに属することは誰も異論はあるまい。しかし余は凡ての精神現象がこの形において現われるものであると信ずる。(『善の研究』岩波文庫、18ページ)



純粋経験説の立脚地より見れば、我々は純粋経験の範囲外に出ることはできぬ。(『善の研究』岩波文庫、25ページ)



・・・要するに、実際に経験していることが純粋経験なのである。ただそれだけの話なのだ。西田が信じようと信じまいと、実際に経験してしまっていることは経験してしまっていることなのであって、そのことは否定しようもない。つまり純粋経験そのものしかそこにはない、そこから「離れる」とかいうことなどありえない、そういうことなのだ。論理によって証明する必要もないし、論理によって否定しようもない事なのだ。

「思考」というものにおいても、想起においても想像においても、結局、私たち自身が経験したことなのである。ただ、そのとき思考や想像やら想起が具体的な経験としていかに現れているのかが問題となって来るのである。

そして神尾氏は、

「純粋経験を唯一の実在としてすべてを説明して見たい」(これをCレヴェルとする)のまえには、「純粋経験が唯一の実在である」(これをとくに取り出してBレヴェルとする)ということ(言=根本命題)があり、そのもう一つまえには「純粋経験」(これをとくに取り出してAレヴェルとする)という(事)がある。このA、B、Cがレヴェルの相異を消してCにたたみこまれたところに『善の研究』の哲学的立場の表明がある(神尾氏、54〜55ページ:上田閑照著「禅/禅思想/哲学」『上田閑照集 第五巻 禅の風景』岩波、2002年、13ページからの引用)



・・・としたうえで、

 まず、参禅者が哲学するとなれば、A→B→Cという方向性を伴った運動を形作り、哲学者が参禅するとなれば、C→B→Aという逆の方向性を伴った運動を形作ることになる、ということである。そのとき、前者の運動に際しては、BとCとの間に決定的な断絶がある。つまり、覚の出来事(A)が自覚されてその証として(何らかの言語的)自己表現(B)に至るのは、禅にとって必然的であり実際に見出される展開であるが、自己ー世界全体を「説明」する炉練りを生産する(C)には至らない。一方、後者の運動に際しては、BとAとの間に決定的な断絶がある。つまり、自己ー世界全体を「説明」する論理活動(C)が自身の論理の核となる第一原理を自問し追究して、根本命題が見出される(B)ことはあっても、哲学活動(思量)全体を包んでその根柢をなす非思量の「事実」(A)には至らない。(神尾氏、55ページ)



・・・というふうに、哲学者におけるAレヴェルとBレヴェルでの「断絶」を強調しているのだ。

しかし、上田氏、神尾氏のこのやり方は、純粋経験に関する全くの誤解から生じているといえよう。私が常日頃から強調していることであるが、言葉を書いたり話したり聞いたり読んだりした事実、それ自体実際に経験している事実なのである。実際に経験しているのだから、それは当然純粋経験である。

このように純粋経験と言葉とを別物として切り離してしまっている。それゆえに「断絶」が生じてしまうのである。神尾氏だけではない、その他の西田哲学研究者が勘違いしていることなのであるが、純粋経験とは「言語以前の経験」などでは決してないのである。

経験と言葉とが「断絶」しているのではない。経験と言葉とが繋がっている、その「理由」が「論理」で説明し尽せない、ということなのだ。「理由」とは因果律に基づくものであって、結局、それらも経験と経験との関係づけによって知られるものなのである。(西田の因果律の説明はヒュームの見解に基づいている)

禅は、「すべて」一切を決する「事実」である。そして、その「事実」は、論理的に語ることができないし、そもそも語る必要がない。すなわち、「説明」されない。一方、哲学は「すべて」を論理的に語ることを使命とし、また、語り得るとしている。その際、「すべて」が「説明」されるものとして限定されるという「事実」自体は、「説明」の埒外にある。(神尾氏、55〜56ページ)



・・・この説明にも問題がある。そもそも「論理的」とは何か、それを説明するのが哲学なのである。そしてすべてを「論理的」に説明することなどできないのである。

純粋経験は論理によって説明されるものではなく、純粋経験が論理の根拠となっているのである。

そして、私たちが実際に経験している事実其儘が純粋経験なのである。経験している事実を論理で説明することなどできるわけがない。

論理⇒経験、なのではなく、
経験⇒論理、なのである。


哲学者の間にも広くみられるこの見解の転倒を明らかにするのが純粋経験論なのだともいえる。

それでは、西田にとって、「すべてを説明し」得るに足る論理体系を形成する核となる第一原理とは何か。そこで、「純粋経験が唯一の実在である」という根本命題が、論理体系の最奥部から論理体系全体に向けて<言>われることになる。このようにして、Cレヴェルにあった哲学は、「すべてを説明して見たい」との意欲を成就するために、自ら深化してBレヴェルに突入していく。そして、そこで第一原理という立脚地を得て再生を果たした哲学は、確信を得てあらためてCレヴェルにて自身の活動に専念することになる――はずであった。何しろ、そのようにして繰り返されてきた幾重もの自己充足が、西洋哲学内の伝統的な歴史を形作ってきたのだから。
 しかし、このとき、西洋哲学は、その歴史にはなかった東洋思想との出会いという事件を迎えんとしている。Bレヴェルにいったん突入した哲学は、いつものように自己回復してCレヴェルに立ち戻って完結することは許されず、さらにAレヴェルの深淵にまでさらされることになる。
(神尾氏、57ページ)



・・・これは明らかな間違いである。西洋哲学にとってもBレヴェルの命題はAレヴェルの事実によって根拠づけられている、それによって「正しさ」が認められているのである。ただこのことについて無頓着なだけなのだ。BとAとの関係、つまり言語表現と経験との関係は、西洋・東洋問わず、共通するものなのだ。言語論的転回においてAレヴェルが無視されるようになってしまっただけなのではないか?

そして、上田氏・神尾氏の言われるAレヴェルの「事」とは、結局のところ、著者自身の経験、そして読者自身の経験なのである。

たとえば一生懸命に断岸を攀ずる場合の如き」(『善の研究』岩波文庫、20ページ)という文章を読んだとき、読者は自分が、あるいは誰かが一心不乱に崖を上っている状況を思い浮かべるであろう。つまり、神尾氏の言われる「断絶」などおかまいなしに、そういった心像やらの経験が出てきてしまうのである。

もちろん、西田の心像と読者の心像とが同じとは限らない。しかし、読者それぞれに心像その他の経験が文章を読みながら現れてくる、それにより西田の論理が確かめられていく、そして読者が西田の文章から自らの経験を引き出せなかったり、仮に引き出せたとしても、その経験と西田の論理との間に齟齬を来していた場合、読者は西田の理論に問題があるのでは、と疑うことができるのだ。

つまり、以下のような神尾氏の説明は言葉と経験との関係における具体的な事実に全く合致していないのである。

「説明」の始まりとなる根本命題としての<言>は、根本語の裏面にて、「説明」が断じられている<事>に拒絶される、という仕方ではじめて働き出すのである。「純粋経験」の「事実」とは、哲学のAレヴェルに呼応して、それが「唯一の実在としてすべてを説明」するために「純粋経験」と名づけられながらも、そう<言>われることでまったく<言>われていない<事>となる<事>である。西洋哲学と東洋思想とが出会うにあたっては、「純粋経験」の「事実」は、自動的に<事>となっているのではなく、あくまで<言>を拒絶する仕方で<事>となるという点に、注意をしておきたい。(神尾氏、58ページ)



・・・先に述べたように、言葉と経験との関係に東洋哲学、西洋哲学の違いはない。カントにせよ誰にせよ、哲学書において何らの事例が与えられたとき、読者はその言語説明から何らかのイメージやら心像やら事象やらといった具体的経験を引き出してしまうのである。

直覚は説明ができぬといふが、説明と云ふのは更に根本的なる直覚に摂帰し得るといふ意味にすぎないのである。(神尾氏、58ページ:『善の研究』第一編第四章からの引用)



・・・というのは、そういうことなのだ。言葉と経験とが繋がっている事実はある。目の前のものを「リンゴだ」と示すこともできるし、音を聞いて「鐘声」と判断することもできる。しかし経験したことそれ自体は、経験してしまったこと、それは論理によって説明されるものではないし、論理によって否定されるようなものではないのだ。

そして、経験が生じた「理由」を考えるということは、事後的な因果関係構築と同義であって、因果関係そのものの性質のとおり、究極的にはその因果関係を支える「何者か」に辿り着くことはできない、因果律には常に「究極的な謎」を伴っているのである。

神尾氏は、純粋経験そのものが論理によって説明される・根拠づけられるものではないことと、純粋経験と言語表現とが繋がっている、音を聞いて「鐘声」だと思った事実が実際にあることとの違いに気づいておられないのではないか?

『善の研究』では、「純粋経験」に通じる具体例として、懸命な登山家や演奏家の無我の境地・・・(中略)・・・などが挙げられている。これらの例を手がかりとすれば、我を忘れて虚心にものに打ち込む恍惚の瞬間といったようなものが浮かび上がってこよう。ただし、それら諸々の恍惚の瞬間での経験は、程度的にではあれ万事に働いて居るという統一力の偏在性を根拠として、たしかに「純粋経験」に親しく通じてはいるのだろうが、「純粋経験」そのものではあるまい。というのも、これらの具体例はいずれも、あくまで「純粋経験を唯一の実在とし」た「説明」を補助する文脈のなかで用立てられているにすぎないからである。(神尾氏、59ページ)



・・・この文章で、神尾氏自身も、『善の研究』の文章を読んで、何等かの聯想をしてしまっている。つまり言語表現から具体的心像を導き出しているのである。神尾氏自身が既にBレヴェルとAレヴェルへの跳躍を「断絶」などおかまいなしに果たしてしまっているのである。このことに神尾氏は気づいているだろうか?

そして、言語表現を読むことで現れてきた心像やらイメージ、それこそが「純粋経験そのもの」なのである。

西田の見解のブレのため、それら経験の”状態”によって純粋経験であったりなかったりするような誤解をもたらしてしまっている。それは西田の理論自体の問題点である。そもそも”「純粋経験」の統一運動”(神尾氏、58ページ)などどこにも見つけることはできない。ましては「直覚」が統一されたものであるという保証などどこにもないのである。

「場所」の論理も、純粋経験の理論における西田の見解のブレについて彼自身が”自覚”できなかったためにもたらされた「辻褄合わせ」の道具にすぎない。それこそ純粋経験として現れていない仮説概念なのである。

もちろん、”「説明」と「事実」との断絶に呼応する<沈黙>を源とするような、いわば無を原理とする論理”(神尾氏、62ページ)も必要ない。「断絶」などもともとないのだから。

 
(2018.2.28[水])
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少しづつ復旧していきます


wordpressの調子が悪いのでいったんサイトを全消去しました。
データは保存してあるので、少しづつ復旧していきます。

wordpressはあまりに重たいので、別の形でもっとシンプルなサイトにしたいと思います。どういう形で過去の記事を復旧するか考えているところです。
2018.2.25[日]
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個物が「作用」であるか否かと「真の自由」であるか否かとは、全く別の問題


小坂国継著「二つの弁証法──ヘーゲルと西田幾多郎」『比較思想研究』第16号、比較思想学会、1990年、168〜176ページ

分析の続き(一応これで終わりです)・・・様々な問題が混同されてしまっている印象です。

 西田によれば、すべて認識は判断の形式において成立する。判断の典型は包摂判断であって、そこでは主語(特殊)は述語(普遍)の内に包摂される。しかるに、アリストテレスの個物はけっして述語とならないものであるから、それはいかなる普遍の内にも包摂されえない。個物が普遍の内に包摂されえないということは、それが概念的認識の対象とならないということである。すると、アリストテレスの論理学においては、概念を超越したものが概念を規定するということになり、それは必然的に形而上学にいきつく。
 そこで、主語となって述語とならない個物がなお概念的知識の対象となるためには、それは何らかの形で普遍のなかに包摂され、普遍によって規定される必要があろう。しかし、このように個物を包摂し、個物を規定する普遍はもはや先ほどの普遍すなわち個物に対立する普遍(具体的普遍)である。そして個物はこのような具体的普遍の自己限定と考えられる。いうまでもなく、これがヘーゲルの論理学であって、西田はそれを述語主義の論理と呼ぶ。そして西田はかような具体的普遍が彼のいわゆる「場所」にあたると説いている。
(小国氏、172ページ)



・・・こういった分析の問題点については、既に以下の記事などで説明してきた。

「普遍」と「個物」との関係は、言語表現の対象としての経験どうしの関係のこと
http://miya.aki.gs/mblog/?p=5194
反対語の関係と矛盾関係との混同
http://miya.aki.gs/mblog/?p=5232
(※ すみません、現在リンク切れです:2018年3月10日)

・・・西田は「個物」と「普遍」という”概念”のみを遊離させ、その言葉を用いた”概念図”的なものを恣意的に描いた上で議論している。「個物」「普遍」という言葉がいかなる純粋経験の具体的事実により根拠づけられているのか、そこを全く無視した形で、疑似論理的辻褄合わせをしているだけなのだ。そもそもが「主語となって述語とならない個物」とはいったい、具体的な何を指しているのか、訳が分からなくなっているのである。

それが「普遍」であろうが「個物」であろうが、具体的経験を言語表現した事実は疑いようのないことなのである。

まずは経験と言葉との繋がり、そしてそれが「普遍」であるのかどうかは、様々な経験の連鎖、積み重ねにより明らかになって来ることなのである。「個物」が「普遍」に「包摂」されるという事実関係は、あくまで経験と経験との繋がりによって明らかになっていくものなのだ。

 
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 西田の「具体的一般者」は場所的一般者であって、それは対象的・ノエマ的には絶対に無なるものである。しかもすべてのものを自己の内に包摂し、それをいわば自己の影として自己の内に映すものである。いいかえれば、自らは無にして一切のものを映す鏡である。したがって、ここでは歴史の真の担い手は個物であることになる。歴史は個物の真に自由で主体的な行為によって作られる。(小国氏、175ページ)



・・・対象的・ノエマ的に絶対に無なる”ということは、純粋経験の具体的事実として現れることがない、ということと同義である。つまり西田の言う「絶対無」「場所」というのはあくまで「想像的因果推論」以上のものではない、ということでもあるのだ。

そして、西田は『善の研究』第一編第三章において自由意志について、それは単に動機と行為との兼ね合いであって、「動機に反してはたらいた時は脅迫を感ずるのであるこれが自由の真意義である」(『善の研究』岩波文庫、49ページ)と説明しているのである。

それならば「真に自由で主体的な行為」とはいったい何なのであろうか? 「個物」がノエシスであることと「自由」とはいったい何の関係があるのだろうか? 「個物」が「作用」だったら「真の自由」だという根拠はいったい何なのだろうか? そこの関連づけの根拠が全く無いのである。

そもそもが、「作用」と「自由意志」とは全く別の問題なのではないか? さらに・・・

 個物は一方で環境によって作られる(一般者は個物を限定する)。しかし他方、この作られた個物が逆に環境を作っていく(個物は一般者を限定する)。この意味で個物は作られて作るものである(一般的限定即個物限定、個物的限定即一般的限定)。それで、現実の歴史的世界はかような個物の創造的行為をとおして「作られたものから作るものへ」へ不断に進展していく。(小国氏、175ページ)



・・・個物と環境との間に動的な相互関係が出来ていることと「自由意志」とはそもそも何の関係があるのだろうか? ここで説明されているのは、単なる個物と環境との「関係」のみである。

「創造的行為」が歴史を変えていくことと「自由意志」とは全く別問題であるはずだ。ただそこには環境が変化した事実、そしてそこに個物の行為との間に因果関連を認めたという事実があるだけである。そのことは「自由意志」に関して何ら語っていないのだ。
(2018.2.5[月])
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西田は、自らの言葉「我々は純粋経験の範囲外に出ることはできぬ」がどういうことなのか「自覚」できていなかったと思う


小坂国継著「二つの弁証法──ヘーゲルと西田幾多郎」『比較思想研究』第16号、比較思想学会、1990年、168〜176ページ

分析の続きである・・・西田は、

我々は純粋経験の範囲外に出ることはできぬ。 (西田幾多郎著『善の研究』岩波文庫、25ページ)



・・・と自分自身が記してしまった、おぞましいというか恐ろしくなるというか、気持ちが悪くなるというか、でも日々普通に生活していればそれほど大したことでもないような・・・この事実を、どれだけきちんと受け止めていたのだろうか?

西田自身が明らかにしてしまったこの事実がいったいどういうことなのか、西田自身がきちんと「自覚」できていたとは到底思えないのだ。

『善の研究』以降の西田の理論展開は、矛盾するものをいかにして辻褄合わせするかという問題に終始しているような気がする。西田は矛盾の辻褄合わせをする前に、「矛盾」とはそもそも何なのか、そして「統一」「不統一」とは何なのか、「意識」とは何なのか、純粋経験の事実と照合しながら具体的に検証していく必要があったのだ。

 
1.「反省」も純粋経験

「反省」とは、「この進行の外に立って、翻って之を見た意識」(II.15)のことであって、それは意識の分裂状態としての「思惟」の諸相にあたる。(小国氏、170ページ)



・・・結局のところ、西田は経験を見る主体(観念的主体・形而上学的主体)というものをエポケーできなかったのだ、ということを改めて感じる。

西田の「自覚」の理論は、明らかに『善の研究』から後退してしまっている。純粋経験論から言えば、一般的に「反省」と考えられているものも、結局はただ現れてきた心像やら感覚やらの具体的経験でしかない。あるいはそれを言語表現したという経験が加わることもある。

つまり、「反省」といえども「思惟」といえども、結局は具体的経験の事実へ還元されるのであって、そこに「意識の分裂的状態」(小国氏、170ページ)というものなど、どこにも見つけることはできないのである。


 
2.対象としての「意識」も作用としての「意識」も純粋経験の具体的事実として現れてきてはいない

前期の西田哲学は全体として「意識」の立場に立っていた。「純粋経験」といい、「自覚」といい、「絶対自由意志」といっても、要するにそれは広義における意識である。しかしながら、西田のいう「意識」はあく、あくまでも「作用」としての意識であって、「対象」としての意識ではない。いいかえれば、彼が追及したのは「意識された意識」ではなく、どこまでも「意識する意識」であった。(小国氏、171ページ)



・・・「意識された意識」と「意識する意識」の違いを具体的に説明してみよう。「意識された意識」とは、「意識」という対象を意識を持つ主体が「反省」する、ということ、「意識する意識」とは、意識ではない対象を主体が「反省」する(推論的)因果メカニズム(=作用)のことである。

まず、「意識された意識」についてであるが、「意識」というものは対象化されえない。なぜなら純粋経験の具体的事実ではないからである。純粋経験はあくまで見えたもの、聞こえたもの、感じたもの、そういった具体的「経験内容」でしかなく、そこに対象化されたり「反省」されたりするような具体的事実内容をどこにも見出すことができないからである。

同時に、純粋経験が具体的事実内容でしかないということは、そこに観念的主体・形而上学的主体というものをどこにも見つけることができない、ということでもある。

一方、「作用」とは何か? 結局具体的経験内容しかそこにはない。「作用」という具体的経験もどこにも見つからないのである。経験と経験とを因果関係で結びつけ、それらの間に何らかの「力」「作用」が働いているのではないか、という「推測」でしかないのである。

つまり、西田の言う「意識」の論理、「自覚」の理論は、どこまでも「推論」悪く言えば「想像」の域を出ることがない、ということなのだ。

結局のところ「意識」とは、様々な経験を因果関係の連鎖によって関連づけ構成される一般的客観認識、主客の世界において、「私」において経験が現れてくる状態のことを「意識がある」と呼んでいる、ということなのである。

付け加えれば、フッサールも意識は作用であって存在ではないと言っていると思うのだが・・・


 
3.「作用」は「力」と同義

ヘーゲルの一般者はいわば過程的統一者であって、それはなお主語的・ノエマ的方向に考えられたものにすぎない、これに対して、西田の一般者は純粋ノエシスであり、したがって主語的・ノエマ的には絶対の無である。そして、かような一般者は自ら無にして一切のものを自己の内に包摂し、また一切のものを自己の影として自己の内に映す。(小国氏、173ページ)



・・・そして、

西田によれば、われわれは弁証法的過程の背後に何ものをも前提してはならない。すなわち、かような過程の背後は「絶対無」である。しかるにヘーゲルは弁証法的過程の背後に一種の理性的な統一者を想定している。すると弁証法的過程はかような統一者の自己展開の過程であることになり、したがってまたそれは連続的で合目的的な過程であることになる。これをいいかえれば、そこにはもはや絶対的な意味での「否定」や「断絶」はなく、また真の意味での「対立」や「矛盾」もなくなってしまう。(小国氏、173〜174ページ)



・・・西田が「弁証法的過程の背後に何ものをも前提してはならない」と述べるとき、以下のような見解が念頭にあると思う。

普通には因果律は直に現象の背後における固定せる者其物の存在を要求する様に考えて居るが、そは誤である。因果律の正当なる意義はヒュームのいった様に、或る現象の起るには必ずこれに先だつ一定の現象があるというまでであって、現象以上の物の存在を要求するのではない。(西田『善の研究』岩波文庫、75ページ)



・・・さらに付け加えて「力とか物とかいうのは説明のために設けられた仮定」(西田、76ページ)としている。これは「作用」に関しても同じである。西田は対象物としての「力」というものを否定はしているが、「作用」にすればそれにあたらない、と考えていることになるが、結局のところ純粋経験として現れることがない「仮定」ということは同じなのである。

「対象化」「反省」とはそもそも何か、ということは既に述べた。結局それらは経験の想起(具体的経験の現れには変わりない)やその言語化であるにすぎない。「意識する意識」という具体的事実などどこにも現れていないのだ。

それを「ノエマ」ととろうが「ノエシス」ととろうが、心像やらの具体的経験とその言語化以上のものはないのである。そして「ノエシス」というものにはそれに対応する具体的純粋経験の事実がない。つまり「言葉のみ」がそこにある。

西田は「絶対無」と言うが、それは純粋経験として現れないものだから「無」というしかないのである。西田の言う「作用」も結局のところ純粋経験の事実に根拠づけられない「想像的因果推論」に基づいた「想像的概念」(つまり言葉のみがある)以上のものにはならないのだ。

 
4.弁証法の詭弁

一切のものは死することによって生れ、また生れては死すという意味を持っている。(小国氏、174ページ)



・・・こういった文学的表現と哲学とを混同してはならない。「死することによって生れ」とはいったい何なのか? 「生れては死す」とは何なのか?

始めがあって終わりがあると推論はできても確定できないこともある。永遠やら無限というものも推論であって、人間が確かめられないから永遠・無限なのである。分からないことは分からないのであって、それ以上のことは言えない。

上記の論理を根拠として、

この絶対無の自覚的限定はその一面において絶対に断絶的であると同時に、他面において絶対に連続的であるという矛盾的要素を有している。(小国氏、174ページ)



・・・と述べているのであるが、全く論拠にさえなっていないことは明らかである。ある事象のある局面では断絶があり、ある局面では連続がある。それは「矛盾」ではない。弁証法とは、「生まれる」「死ぬ」という反対語を、その言葉面のみの「矛盾」を(悪い言葉で言えば)でっち上げているだけなのだ。

 
 

<前記事はこちら>
「普遍」と「個物」との関係は、言語表現の対象としての経験どうしの関係のこと
http://miya.aki.gs/mblog/bn2018_01.html#2018012

 
(2018.2.1[木])

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