神尾和寿著 「純粋経験」の言語化の可能性と必然性をめぐって 『流通科学論集─人間・社会・自然編─』第28巻第2号、43〜66ページ
・・・の分析です。
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純粋経験が「未分―分化ー再合一(未分)」(神尾氏、53ページ)という「統一運動」(神尾氏、53ページ)をしているのではなく、西田がそう言い表した精神現象が、純粋経験の具体的事実としていかに現れているのか、そこが問題なのである。
結局、知覚やら心像やら情動やら言語やらの具体的経験としてしか現れていない、これが純粋経験の具体的事実なのであって、そこに「主体」「形而上学的主体」「観念的主体」「超越論的主観性」という具体的経験はどこにも表れていない、それが「純粋経験の主客未分」なのである。
結局のところ、「純粋経験を唯一の実在としてすべてを説明して見たい」というこの著の動機にして目論見の真意が、徹底的に問い直されねばならなくなってくる。「すべてを説明し」得るほどの「唯一の実在として」、「純粋経験」は本当に妥当するのかどうか。妥当するというのならば、どのような仕方によってなのか。そして、その場合には、「唯一の実在」とか「すべて」とか「説明」といった事態はどのようなことになるのか。(神尾氏、54ページ)
・・・「純粋経験を唯一の実在としてすべてを説明して見たい」という西田の見解に問題があることは確かである。そもそも「すべてを説明する」とは何なのだろうか? 私たちにはいまだ分からないことがたくさんある。それなのに哲学においていきなり「すべて」が説明できるようになるはずもないのである。
そうではなくて、西田自身が言っているように、
如何なる精神現象が純粋経験の事実であるか。感覚や知覚がこれに属することは誰も異論はあるまい。しかし余は凡ての精神現象がこの形において現われるものであると信ずる。(『善の研究』岩波文庫、18ページ)
純粋経験説の立脚地より見れば、我々は純粋経験の範囲外に出ることはできぬ。(『善の研究』岩波文庫、25ページ)
・・・要するに、実際に経験していることが純粋経験なのである。ただそれだけの話なのだ。西田が信じようと信じまいと、実際に経験してしまっていることは経験してしまっていることなのであって、そのことは否定しようもない。つまり純粋経験そのものしかそこにはない、そこから「離れる」とかいうことなどありえない、そういうことなのだ。論理によって証明する必要もないし、論理によって否定しようもない事なのだ。
「思考」というものにおいても、想起においても想像においても、結局、私たち自身が経験したことなのである。ただ、そのとき思考や想像やら想起が具体的な経験としていかに現れているのかが問題となって来るのである。
そして神尾氏は、
「純粋経験を唯一の実在としてすべてを説明して見たい」(これをCレヴェルとする)のまえには、「純粋経験が唯一の実在である」(これをとくに取り出してBレヴェルとする)ということ(言=根本命題)があり、そのもう一つまえには「純粋経験」(これをとくに取り出してAレヴェルとする)という(事)がある。このA、B、Cがレヴェルの相異を消してCにたたみこまれたところに『善の研究』の哲学的立場の表明がある(神尾氏、54〜55ページ:上田閑照著「禅/禅思想/哲学」『上田閑照集 第五巻 禅の風景』岩波、2002年、13ページからの引用)
・・・としたうえで、
まず、参禅者が哲学するとなれば、A→B→Cという方向性を伴った運動を形作り、哲学者が参禅するとなれば、C→B→Aという逆の方向性を伴った運動を形作ることになる、ということである。そのとき、前者の運動に際しては、BとCとの間に決定的な断絶がある。つまり、覚の出来事(A)が自覚されてその証として(何らかの言語的)自己表現(B)に至るのは、禅にとって必然的であり実際に見出される展開であるが、自己ー世界全体を「説明」する炉練りを生産する(C)には至らない。一方、後者の運動に際しては、BとAとの間に決定的な断絶がある。つまり、自己ー世界全体を「説明」する論理活動(C)が自身の論理の核となる第一原理を自問し追究して、根本命題が見出される(B)ことはあっても、哲学活動(思量)全体を包んでその根柢をなす非思量の「事実」(A)には至らない。(神尾氏、55ページ)
・・・というふうに、哲学者におけるAレヴェルとBレヴェルでの「断絶」を強調しているのだ。
しかし、上田氏、神尾氏のこのやり方は、純粋経験に関する全くの誤解から生じているといえよう。私が常日頃から強調していることであるが、言葉を書いたり話したり聞いたり読んだりした事実、それ自体実際に経験している事実なのである。実際に経験しているのだから、それは当然純粋経験である。
このように純粋経験と言葉とを別物として切り離してしまっている。それゆえに「断絶」が生じてしまうのである。神尾氏だけではない、その他の西田哲学研究者が勘違いしていることなのであるが、純粋経験とは「言語以前の経験」などでは決してないのである。
経験と言葉とが「断絶」しているのではない。経験と言葉とが繋がっている、その「理由」が「論理」で説明し尽せない、ということなのだ。「理由」とは因果律に基づくものであって、結局、それらも経験と経験との関係づけによって知られるものなのである。(西田の因果律の説明はヒュームの見解に基づいている)
禅は、「すべて」一切を決する「事実」である。そして、その「事実」は、論理的に語ることができないし、そもそも語る必要がない。すなわち、「説明」されない。一方、哲学は「すべて」を論理的に語ることを使命とし、また、語り得るとしている。その際、「すべて」が「説明」されるものとして限定されるという「事実」自体は、「説明」の埒外にある。(神尾氏、55〜56ページ)
・・・この説明にも問題がある。そもそも「論理的」とは何か、それを説明するのが哲学なのである。そしてすべてを「論理的」に説明することなどできないのである。
純粋経験は論理によって説明されるものではなく、純粋経験が論理の根拠となっているのである。
そして、私たちが実際に経験している事実其儘が純粋経験なのである。経験している事実を論理で説明することなどできるわけがない。
論理⇒経験、なのではなく、 経験⇒論理、なのである。
哲学者の間にも広くみられるこの見解の転倒を明らかにするのが純粋経験論なのだともいえる。
それでは、西田にとって、「すべてを説明し」得るに足る論理体系を形成する核となる第一原理とは何か。そこで、「純粋経験が唯一の実在である」という根本命題が、論理体系の最奥部から論理体系全体に向けて<言>われることになる。このようにして、Cレヴェルにあった哲学は、「すべてを説明して見たい」との意欲を成就するために、自ら深化してBレヴェルに突入していく。そして、そこで第一原理という立脚地を得て再生を果たした哲学は、確信を得てあらためてCレヴェルにて自身の活動に専念することになる――はずであった。何しろ、そのようにして繰り返されてきた幾重もの自己充足が、西洋哲学内の伝統的な歴史を形作ってきたのだから。 しかし、このとき、西洋哲学は、その歴史にはなかった東洋思想との出会いという事件を迎えんとしている。Bレヴェルにいったん突入した哲学は、いつものように自己回復してCレヴェルに立ち戻って完結することは許されず、さらにAレヴェルの深淵にまでさらされることになる。(神尾氏、57ページ)
・・・これは明らかな間違いである。西洋哲学にとってもBレヴェルの命題はAレヴェルの事実によって根拠づけられている、それによって「正しさ」が認められているのである。ただこのことについて無頓着なだけなのだ。BとAとの関係、つまり言語表現と経験との関係は、西洋・東洋問わず、共通するものなのだ。言語論的転回においてAレヴェルが無視されるようになってしまっただけなのではないか?
そして、上田氏・神尾氏の言われるAレヴェルの「事」とは、結局のところ、著者自身の経験、そして読者自身の経験なのである。
「たとえば一生懸命に断岸を攀ずる場合の如き」(『善の研究』岩波文庫、20ページ)という文章を読んだとき、読者は自分が、あるいは誰かが一心不乱に崖を上っている状況を思い浮かべるであろう。つまり、神尾氏の言われる「断絶」などおかまいなしに、そういった心像やらの経験が出てきてしまうのである。
もちろん、西田の心像と読者の心像とが同じとは限らない。しかし、読者それぞれに心像その他の経験が文章を読みながら現れてくる、それにより西田の論理が確かめられていく、そして読者が西田の文章から自らの経験を引き出せなかったり、仮に引き出せたとしても、その経験と西田の論理との間に齟齬を来していた場合、読者は西田の理論に問題があるのでは、と疑うことができるのだ。
つまり、以下のような神尾氏の説明は言葉と経験との関係における具体的な事実に全く合致していないのである。
「説明」の始まりとなる根本命題としての<言>は、根本語の裏面にて、「説明」が断じられている<事>に拒絶される、という仕方ではじめて働き出すのである。「純粋経験」の「事実」とは、哲学のAレヴェルに呼応して、それが「唯一の実在としてすべてを説明」するために「純粋経験」と名づけられながらも、そう<言>われることでまったく<言>われていない<事>となる<事>である。西洋哲学と東洋思想とが出会うにあたっては、「純粋経験」の「事実」は、自動的に<事>となっているのではなく、あくまで<言>を拒絶する仕方で<事>となるという点に、注意をしておきたい。(神尾氏、58ページ)
・・・先に述べたように、言葉と経験との関係に東洋哲学、西洋哲学の違いはない。カントにせよ誰にせよ、哲学書において何らの事例が与えられたとき、読者はその言語説明から何らかのイメージやら心像やら事象やらといった具体的経験を引き出してしまうのである。
直覚は説明ができぬといふが、説明と云ふのは更に根本的なる直覚に摂帰し得るといふ意味にすぎないのである。(神尾氏、58ページ:『善の研究』第一編第四章からの引用)
・・・というのは、そういうことなのだ。言葉と経験とが繋がっている事実はある。目の前のものを「リンゴだ」と示すこともできるし、音を聞いて「鐘声」と判断することもできる。しかし経験したことそれ自体は、経験してしまったこと、それは論理によって説明されるものではないし、論理によって否定されるようなものではないのだ。
そして、経験が生じた「理由」を考えるということは、事後的な因果関係構築と同義であって、因果関係そのものの性質のとおり、究極的にはその因果関係を支える「何者か」に辿り着くことはできない、因果律には常に「究極的な謎」を伴っているのである。
神尾氏は、純粋経験そのものが論理によって説明される・根拠づけられるものではないことと、純粋経験と言語表現とが繋がっている、音を聞いて「鐘声」だと思った事実が実際にあることとの違いに気づいておられないのではないか?
『善の研究』では、「純粋経験」に通じる具体例として、懸命な登山家や演奏家の無我の境地・・・(中略)・・・などが挙げられている。これらの例を手がかりとすれば、我を忘れて虚心にものに打ち込む恍惚の瞬間といったようなものが浮かび上がってこよう。ただし、それら諸々の恍惚の瞬間での経験は、程度的にではあれ万事に働いて居るという統一力の偏在性を根拠として、たしかに「純粋経験」に親しく通じてはいるのだろうが、「純粋経験」そのものではあるまい。というのも、これらの具体例はいずれも、あくまで「純粋経験を唯一の実在とし」た「説明」を補助する文脈のなかで用立てられているにすぎないからである。(神尾氏、59ページ)
・・・この文章で、神尾氏自身も、『善の研究』の文章を読んで、何等かの聯想をしてしまっている。つまり言語表現から具体的心像を導き出しているのである。神尾氏自身が既にBレヴェルとAレヴェルへの跳躍を「断絶」などおかまいなしに果たしてしまっているのである。このことに神尾氏は気づいているだろうか?
そして、言語表現を読むことで現れてきた心像やらイメージ、それこそが「純粋経験そのもの」なのである。
西田の見解のブレのため、それら経験の”状態”によって純粋経験であったりなかったりするような誤解をもたらしてしまっている。それは西田の理論自体の問題点である。そもそも”「純粋経験」の統一運動”(神尾氏、58ページ)などどこにも見つけることはできない。ましては「直覚」が統一されたものであるという保証などどこにもないのである。
「場所」の論理も、純粋経験の理論における西田の見解のブレについて彼自身が”自覚”できなかったためにもたらされた「辻褄合わせ」の道具にすぎない。それこそ純粋経験として現れていない仮説概念なのである。
もちろん、”「説明」と「事実」との断絶に呼応する<沈黙>を源とするような、いわば無を原理とする論理”(神尾氏、62ページ)も必要ない。「断絶」などもともとないのだから。
(2018.2.28[水])
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