今、『純粋理性批判』を読みながら、カントがヒュームの示した可能性をいかに潰してしまったのかを説明したいな、と考えているところです。
*****************************
寺尾隆二著「カントとヒューム―カントの『ヒューム超克』をめぐって―」『道標』第28集、1991年(途中、コピー・ペーストの失敗なのか文章が重複していました)
を見つけたので読んでみました。感じたことをメモしておきます。
1.巷でよく見かけるヒュームに対する誤解
「因果律そのもの」の客観性と、それぞれの個別事例において構築された因果関係の客観性(必然性)とがしばしば混同されている
しかしながら注意したいのは ここでのカントの経験自体は偶然的であって必然性を有しないとの前提が 、実はヒュームと共通の前提でありそこから両者が正反対の結論を引き出したことである 因果性の客観的妥当性をヒュームの場合には否定し、カントは肯定したのである。カント はヒュームと共通の前提から、異なる方向に議論を進めたわけである。(寺尾氏、2ページ)
・・・ヒュームは因果関係に必然性がないとは述べていない。
2.カント理論の問題点
・経験として現れる”悟性概念”が、経験そのものを成立させるわけではない。悟性概念が現れることと、知覚などの経験が現れること、悟性概念と知覚とが繋がることとは、それぞれ別の経験であり、悟性概念が経験を成立させるのではない。 ・経験上常にそうなっている、ということをア・プリオリと取り違えている。 ・「考えることはできる」(カント著・篠田英雄訳『純粋理性批判 上』岩波新書、42ページ)ことと、”答えることができる”こととの取り違え、「問う」ことができることとア・プリオリなものの客観性との混同・・・問うことができても、その妥当性は経験によらざるをえない。
それではカントのヒュームに対する評価はどうであろうか。カント自身の言葉を引いてみよう 「私は確かに経験なしでは、結果から原因を、あるいは原因から結果を、ア・プリオリにつまり経験に教えられることなくしては規定的には認識できない。が、しかし、 何ものかが恒常的法則によって引きつづいておこるためには、あるものが先行していたのでなければならない。ということはア・プリオリに認識できるのである。したがってヒュームは、法則によるわれわれの規定が偶然的であるということから、あやまって法則それ 自体が偶然的であると推論したわけである」とし 「ヒユームは、つねづね極めて明敏な人であるにも拘らず、やはり懐疑論的誤謬を犯したのである「そこで彼もまた懐疑論が必ず受けねばならぬ打撃を被らざるを得なかった、それは−−−彼自身の所論がまた疑われる、ということである」が、その評価である。 (寺尾氏、4ページ)
ここで述べられている中で法則によるわれわれの規定が偶然的であるということからあやまって法則それ自体が偶然的であると推論したわけである」に注意してみよう。この場合、カントの云う「法則によるわれわれの規定が偶然的である」とは、因果性の法則が経験を成立させるア・プリオリな条件であっても、個々の経験的認識の具体的な因果関係までを規定しうるものではないとみているととれる。(寺尾氏、5ページ)
カントは経験をそもそも基礎づける先験的次元での因果性と経験的諸認識での具体的な因果法則との使用を区別しているわけである。つまりカントは経験をそもそも基礎づける先験的次元での因果性を問題とし、ヒユームが批判しようとした個別的具体的経験の次元での因果性の妥当性の問題は、最初から除外されていわけである。(寺尾氏、5ページ)
・・・「因果性を問うてしまう」という経験がしばしば起こるという事実を、因果関係そのものの客観性と取り違えてしまっている。”理由を問うてしまう”経験の事実性は、「因果性そのもの」の客観性をもたらすものではない。
あくまで事象と事象との「恒常的相伴」が個別的具体的経験の次元での因果性の必然性をもたらすものなのである。
そもそもが、私たちは常に因果関係を想定して生きているのでもない。経験はただただ現れるもの、時折その経験と経験とを結びつけて因果関係を構築しようとはしている。しかし常にそうしているわけでもない。
繰り返しになるが、結局下記@とAとの混同が問題なのである。
@悟性概念が(経験として)現れているという「事実」に対する客観性 A悟性概念で示されている事実(言葉と経験との繋がり)の正しさに対する客観性
@原因を問うてしまうという経験の事実に対する客観性 A個別的具体的経験での因果性の正しさに対する客観性
経験の一切の対象は、必然的にかかる悟性概念〔カテゴリー〕に従って規定せられ、またこれらの概念と一致せねばならない(カント著・篠田英雄訳『純粋理性批判 上』岩波新書、34ページ)
・・・これは悟性概念によって経験が可能になることを示しているのでは決してない。経験が悟性概念(結局は「言葉」)によって示されるとはどういうことなのか、ということを示しているのである。
3.ヒュームの限界
ヒュームは因果性の問題を信念の問題としてとらえている。それゆえヒュームの議論は、特定の因果関連をわれわれが信じるにいたるのはなぜかを、真理的主観の問題として追及していくことになる。(寺尾氏、4ページ)
・・・既に主観・客観の存在が前提されてしまっている⇒カントのつけ入る隙を与えてしまった。
ヒュームが因果性についてたてた二つの問いをみてみたい。 「第一に、存在に始まりがあるすべてのものは、また必然的に原因をもつ、と明言するのはいかなる理由によるのか 」 。 「第二に、しかじかの特定の原因は必然的にしかじかの特定の結果を伴わねばならぬと 断定するのはなぜか。また、一方から他方へと導く推理の本性、およびこの推理を信頼する信念の本性はなにか 」 (寺尾氏、2ページ)
・・・「いかなる理由によるのか」「なぜか」という”問い”それ自体が「原因」を求めている、因果律を前提とした問いである、ということ。ヒューム自身が実際にこのような形で問うていたのか、あるいは著者の寺尾氏の混同によるものなのか、そのあたりは『人性論』をきちんと読んで確認したい。ただ、ヒュームの因果律に対する認識はまだ不徹底なところがあるのも確か。
経験論的に問うのであれば、”「因果関係に必然性がある」とはいかなる経験のことか”、”経験の何をもって「因果関係に必然性がある」としているのか”、そういう形になるはずなのである。そして、実際ヒュームの回答はこれに沿ったものになっている。
(2018.4.13[金])
|