2018年04月の日記


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自己言及はパラドクスではない 〜 ニクラス・ルーマン著・土方透/大沢善信訳『自己言及性について』(ちくま学芸文庫)、「訳者あとがき」(土方透著)の問題点


新しいレポートを書きました。

自己言及はパラドクスではない 〜 ニクラス・ルーマン著・土方透/大沢善信訳『自己言及性について』(ちくま学芸文庫)、「訳者あとがき」(土方透著)の問題点
http://miya.aki.gs/miya/miya_report18.pdf


・・・ニクラス・ルーマン著・土方透/大沢善信訳『自己言及性について』(ちくま学芸文庫)、「訳者あとがき」(土方透著)における問題点を指摘したものです。具体的事象の関係を抽象概念どうしの形式論理的関係にすり替えることで、あたかもパラドクス・循環があるように見せかけているだけ、具体的に事実を検証すればそこにパラドクスなどどこにもないことが明らかになると思います。

<目次>
T.具体的事象の関係を抽象概念どうしの形式論理的関係にすり替えている(1ページ)
U.「すべてのクレタ人は嘘つきだと、クレタ人が言った」はパラドクスか?(2ページ)
V.「特権的外部」?(3ページ)
W.比喩による論理のすり替え(5ページ)
<追記>(6ページ)
2018.4.15[日]
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「因果性を問うてしまう」という経験の事実性を、因果関係そのものの客観性と取り違えてしまっている


今、『純粋理性批判』を読みながら、カントがヒュームの示した可能性をいかに潰してしまったのかを説明したいな、と考えているところです。

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寺尾隆二著「カントとヒューム―カントの『ヒューム超克』をめぐって―」『道標』第28集、1991年(途中、コピー・ペーストの失敗なのか文章が重複していました)

を見つけたので読んでみました。感じたことをメモしておきます。


1.巷でよく見かけるヒュームに対する誤解



「因果律そのもの」の客観性と、それぞれの個別事例において構築された因果関係の客観性(必然性)とがしばしば混同されている

しかしながら注意したいのは ここでのカントの経験自体は偶然的であって必然性を有しないとの前提が 、実はヒュームと共通の前提でありそこから両者が正反対の結論を引き出したことである 因果性の客観的妥当性をヒュームの場合には否定し、カントは肯定したのである。カント はヒュームと共通の前提から、異なる方向に議論を進めたわけである。(寺尾氏、2ページ)



・・・ヒュームは因果関係に必然性がないとは述べていない。


2.カント理論の問題点



・経験として現れる”悟性概念”が、経験そのものを成立させるわけではない。悟性概念が現れることと、知覚などの経験が現れること、悟性概念と知覚とが繋がることとは、それぞれ別の経験であり、悟性概念が経験を成立させるのではない。
・経験上常にそうなっている、ということをア・プリオリと取り違えている。
・「考えることはできる」(カント著・篠田英雄訳『純粋理性批判 上』岩波新書、42ページ)ことと、”答えることができる”こととの取り違え、「問う」ことができることとア・プリオリなものの客観性との混同・・・問うことができても、その妥当性は経験によらざるをえない。

それではカントのヒュームに対する評価はどうであろうか。カント自身の言葉を引いてみよう 「私は確かに経験なしでは、結果から原因を、あるいは原因から結果を、ア・プリオリにつまり経験に教えられることなくしては規定的には認識できない。が、しかし、 何ものかが恒常的法則によって引きつづいておこるためには、あるものが先行していたのでなければならない。ということはア・プリオリに認識できるのである。したがってヒュームは、法則によるわれわれの規定が偶然的であるということから、あやまって法則それ 自体が偶然的であると推論したわけである」とし 「ヒユームは、つねづね極めて明敏な人であるにも拘らず、やはり懐疑論的誤謬を犯したのである「そこで彼もまた懐疑論が必ず受けねばならぬ打撃を被らざるを得なかった、それは−−−彼自身の所論がまた疑われる、ということである」が、その評価である。 (寺尾氏、4ページ)



ここで述べられている中で法則によるわれわれの規定が偶然的であるということからあやまって法則それ自体が偶然的であると推論したわけである」に注意してみよう。この場合、カントの云う「法則によるわれわれの規定が偶然的である」とは、因果性の法則が経験を成立させるア・プリオリな条件であっても、個々の経験的認識の具体的な因果関係までを規定しうるものではないとみているととれる。(寺尾氏、5ページ)



カントは経験をそもそも基礎づける先験的次元での因果性と経験的諸認識での具体的な因果法則との使用を区別しているわけである。つまりカントは経験をそもそも基礎づける先験的次元での因果性を問題とし、ヒユームが批判しようとした個別的具体的経験の次元での因果性の妥当性の問題は、最初から除外されていわけである。(寺尾氏、5ページ)



・・・「因果性を問うてしまう」という経験がしばしば起こるという事実を、因果関係そのものの客観性と取り違えてしまっている。”理由を問うてしまう”経験の事実性は、「因果性そのもの」の客観性をもたらすものではない。

あくまで事象と事象との「恒常的相伴」が個別的具体的経験の次元での因果性の必然性をもたらすものなのである。

そもそもが、私たちは常に因果関係を想定して生きているのでもない。経験はただただ現れるもの、時折その経験と経験とを結びつけて因果関係を構築しようとはしている。しかし常にそうしているわけでもない。

繰り返しになるが、結局下記@とAとの混同が問題なのである。

@悟性概念が(経験として)現れているという「事実」に対する客観性
A悟性概念で示されている事実(言葉と経験との繋がり)の正しさに対する客観性

@原因を問うてしまうという経験の事実に対する客観性
A個別的具体的経験での因果性の正しさに対する客観性


経験の一切の対象は、必然的にかかる悟性概念〔カテゴリー〕に従って規定せられ、またこれらの概念と一致せねばならない(カント著・篠田英雄訳『純粋理性批判 上』岩波新書、34ページ)



・・・これは悟性概念によって経験が可能になることを示しているのでは決してない。経験が悟性概念(結局は「言葉」)によって示されるとはどういうことなのか、ということを示しているのである。


3.ヒュームの限界



ヒュームは因果性の問題を信念の問題としてとらえている。それゆえヒュームの議論は、特定の因果関連をわれわれが信じるにいたるのはなぜかを、真理的主観の問題として追及していくことになる。(寺尾氏、4ページ)



・・・既に主観・客観の存在が前提されてしまっている⇒カントのつけ入る隙を与えてしまった。

ヒュームが因果性についてたてた二つの問いをみてみたい。
  「第一に、存在に始まりがあるすべてのものは、また必然的に原因をもつ、と明言するのはいかなる理由によるのか 」 。
 「第二に、しかじかの特定の原因は必然的にしかじかの特定の結果を伴わねばならぬと 断定するのはなぜか。また、一方から他方へと導く推理の本性、およびこの推理を信頼する信念の本性はなにか 」
(寺尾氏、2ページ)



・・・「いかなる理由によるのか」「なぜか」という”問い”それ自体が「原因」を求めている、因果律を前提とした問いである、ということ。ヒューム自身が実際にこのような形で問うていたのか、あるいは著者の寺尾氏の混同によるものなのか、そのあたりは『人性論』をきちんと読んで確認したい。ただ、ヒュームの因果律に対する認識はまだ不徹底なところがあるのも確か。

経験論的に問うのであれば、”「因果関係に必然性がある」とはいかなる経験のことか”、”経験の何をもって「因果関係に必然性がある」としているのか”、そういう形になるはずなのである。そして、実際ヒュームの回答はこれに沿ったものになっている。
(2018.4.13[金])
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「変化」は「潜在的」ではなく、具体的経験である/時間が流れているのではなく、経験が変化しているだけ


入不二基義著「現実の現実性と時間の動性」『哲学論叢 』(2017), 44: 1-15

・・・は、永井氏の見解よりも、かなり前進しているようには思える(森岡氏、入不二氏の論文における説明を読んでの限りであるが)。

前半(I)では、「現実の現実性」を永井的な<私>や<今>から切り離そうとする議論を展開して、現実の現実性が(無内包に加えて)無様相・無人称・無時制でもあり偏在的であることを強調する。後半(II)では、「時間の動性(時間の経過)」を「現在(今)の移動」という考え方から切り離そうとする議論を展開して、時間の動性とは、今が動くことではなくて、更にその背後に退かざるを得ない潜在的な絶対変化であることを強調する。(入不二氏、1ページ)



・・・これは一か所を除き、かなり同意できるものではある。その一か所とは、「その背後に退かざるを得ない潜在的な絶対変化」というところである。「変化」は実際に見えているし感じている。「潜在的」ではない。

ただ、”「時間の動性(時間の経過)」を「現在(今)の移動」という考え方から切り離そう”という試みに関しては、ややひっかかる所はあるが、方向性としては的外れではない気もする。

この用法の「この(これ)」は、外のない現実すべてを丸ごと内側から指し示そうとしている”(入不二氏、3ページ)”、”「対比なし」の現実”(入不二氏、3ページ)・・・という言葉のニュアンスもなんとなく分からないではない。永井氏の”中心指向的(収斂的)な「現実(私・今)」”(入不二氏、3ページ)が「人称・時制・様相」(入不二氏、3ページ)を前提としたものだからである。(森岡氏の言われる「生きられているリアリティ」に相当するか)

ただ、「内側から指し示す」必要があるのか、ということだ。「この(これ)」という「言葉」と「ありありと現れている何か」(入不二氏、5ページ)が結びついただけけのことである。

そして、入不二氏(そして森岡氏)における「現実」概念が、常に”モデル的”なものであって、具体的経験の事実として顕在化している、実際に現れているものから離れてしまっている、そこが問題なのである。

「現実」であることと「現在」であることとは別のことである。にもかかわらず、(過去や未来ではなく)現在を「ありありと現れている何か」として、特権的な現実であるかのようにみなしてしまうと、現実は現在へと不当に狭まり、現実性は現前性・顕在性に変質してしまう。(入不二氏、5ページ)



・・・先の記事(「現実性」とは、実際の具体的経験のことにほかならない)で既に述べたが、「ありありと現れている何か」は「現実」以外の何物でもない。

「ありありと現れている何か」が顕在的なものであることと、それが「現在」であることとは全く別のことなのである。このあたりの混同が、入不二氏の見解の混乱を招いているのではなかろうか。

その混同故に、

 「時間の経過」は、他の変化(状態変化や位置移動など)の背景として潜在するのみであって、けっして前景化することはない。そこで時間変化は、他の変化(時間変化ではないふつうの変化)に寄生することによってしか、表象することができない。その点では、時間変化は他の変化に依存する。時間の経過が、川の流れや時計の針の移動などの変化、あるいはものの状態変化などに重ねられて表象されるのは、このためであり、その表象的な依存関係は必然でもある。
 にもかかわらず、それ自体は表象され得ない時間変化が背後で潜在進行していてこそ、その他の変化が前景で進行できる(とみなされねばならない)。また、たとえその他の変化が起こらなかったとしても、時間変化のほうは表象されないだけで潜在進行している(とみなされねばならない)。その点では、時間変化は、他の変化に依存しない絶対的な変化なのである。
(入不二氏、10〜11ページ)



・・・このように説明が混乱してしまっているのだ。

「ありありと現れている何か」を「現実性」として認めることと、「ありありと現れている何か」が「現在」であることとを同一視してしまっているために、「ありありと現れている何か」(=要するに具体的経験)が「変化」しているという”顕在的な”「事実」を不当に無視し、「変化」というものが「潜在的な」ものであるかのような錯誤的な説明につながってしまった。

そして、「時間変化は、他の変化に依存しない絶対的な変化」であるという根拠がどこにも見当たらないのである。

拙著、

哲学的時間論における二つの誤謬、および「自己出産モデル」 の意義
http://miya.aki.gs/miya/miya_report17.pdf

・・・の最後で私は、次のように説明している。

 私たちは、経験を「過去・現在(という瞬間)・未来」「常に流れる時間」というフォーマット・枠組みに振り分けて理解している。これは事実である。しかし、この枠組みがしばしば実際の経験と齟齬を来してしまうことも事実なのである。
 実際の経験は、単に、見えているもの・聞こえているもの・感じているもの、言葉や浮かんできたイメージといったもの、変化したりしなかったりしている。常に流れてはいないし、瞬間でもない(瞬間かどうか判断しようがない)。それ故に、問い方を誤ることでパラドクスを引き起こしてしまうこともありうるのだ。
(宮国、11ページ)



・・・実際に具体的経験の事実として現れているものを、イメージ的な仮説概念の枠組みへ振り分けている、まずは経験の事実ありき、現在・過去・未来という客観的時間の枠組みは後付けの説明であるということなのだ。そしてその枠組みと実際の経験とが常に合致しているとは限らない、ということなのである。

具体的経験の事実(純粋経験)においては、”時間など流れてはいない”のである。時間が流れているのではない。あくまで経験が変化しているだけ(宮国、6ページ)なのだ。
2018.4.1[日]

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