2018年03月の日記


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「現実性」とは、実際の具体的経験のことにほかならない


思想的、疫学的、医療について
http://syuichiao.hatenadiary.com/

というブログの

時間は実在しない?マクタガートの「時間の非実在性」を読んでみた。
http://syuichiao.hatenadiary.com/entry/2017/02/14/180000

・・・という記事でマクタガートについて説明されていた。

マクタガートは時間に関してA系列とB系列、さらにC系列という概念を導入したのだそうだ。

A系列・・・遠い過去から近い過去を経て、現在へと、そして現在から近い未来を経て遠いい未来へと連なる一系列
B系列・・・より前からより後へと連なる一系列



C系列・・・出来事の順序(時間的なものではない)
変化と時間が入ってきて初めてC系列はB系列になる。
時間的でないC系列は順序はあっても方向性はない。



A、B、C系列を整理すれば、A系列+C系列→B系列と表せるように思われる。入不二基義氏によるマクタガート解釈、すなわちA系列C系列=B系列とするのは端的すぎるという批判もある。



・・・「出来事の順序(時間的なものではない)」に目を付けたのは良いとして、「変化と時間が入ってきて」C系列がB系列になる、という見解はひっくりかえっていないか?

そうではない。経験(出来事でも良いが)の変化がまずあって、それを時間の流れと呼んでいる、ということなのである。

今はまだ復旧していないが、かつて分析した以下の泉谷氏の論文においてもマクタガートについて触れられている。

泉谷洋平著「行為の自己言及性と時空―人文地理学者のアンソニー・ギデンズ理解をめぐって―」『空間・社会・地理思想』 7号 2-16頁, 2002年

マクタガート(McTaggart 1988)は,「変化」が時間の本質であるという。変化を認知することは, 未来であったところのものが現在になり,それがさらに過去になることを認識することである。そして,このような変化を本質とする時間は,経験的なレベルでは実在しない。この論証の帰結は意外な印象を与え,多くの反論がなされたが,およそ考え付く反論はダメット(1986: 370-381)によってことごとく論破されており,マクタガートの提示した論証は正当であることが認められている(大澤1994: 313, 1999: 140-150)。そうであれば,われわれは,何らかの出来事が「非時間的な関係に立っているのに,それをわれわれが時間的だと誤解するのだ」(ダメット1986: 380)と考えざるをえない。そして,まさに実在しない時間が現実として体験されるところに,U(1)で確認したパラドクスが巧妙に隠蔽されるのである。(泉谷氏、6ページ)



・・・”「変化」が時間の本質である”という見解は良いのだが、”変化を本質とする時間は,経験的なレベルでは実在しない”というのは微妙である。「変化」は経験しているが「時間」は経験していない、と言った方がより正確か。

”何らかの出来事が「非時間的な関係に立っているのに,それをわれわれが時間的だと誤解するのだ”というのもなかなかに鋭い指摘ではあるのだが・・・そこからなぜ、”実在しない時間が現実として体験される”ことになるのか。「経験的なレベルでは実在しない」のである。要するに”体験されていない”ということなのである。ここの齟齬を泉谷氏はどのように考えておられるのだろうか?

泉谷氏の「変化」に関する見解も転倒したものである。

ある状態Aがある状態Bへ変化するということは, 当然,AとBとの間に何らかの意味で差異があることを意味する。しかし,AとBが単に異なるのであれば,われわれはそれを変化とは呼ばない。たとえば,「信号が赤から青に変わった」という言葉が意味 を持つのは,赤から青に変わった何ものかが,何も のか(信号)としての同一性を保持しているからである。これに対し,赤い箱と青い箱が並んでいる時に,両者の差異について「赤が青に変わった」というように言及することは,通常意味をなさない。このように同一性が想定されない,同一性をそもそも想定していないようなケースにおいては,「赤が青に変わった」という言明は無意味であり,変化について語ったことにはならない。つまり,ある状況を「変化」と呼びうるためには,二つの事象の間に差異がありながら, なおかつ同一性もが保持されていなければならないのである。(泉谷氏、6ページ)



・・・こういった見解の問題点は、

哲学的時間論における二つの誤謬、および「自己出産モデル」 の意義
http://miya.aki.gs/miya/miya_report17.pdf

・・・で既に述べた。泉谷氏の言われる「規則のパラドクス」ついても、このレポートで(間接的にではあるが)それが詭弁であることを説明している。要するに単なる「経験則」をアプリオリと取り違えているのである。

未来・過去・現在の「三兄弟」からなる「時間」である。「三番目[現在]がいられるのは,一番 目[未来]が二番目[過去]に変身してくれるため」というのは,時間の本質が「変化」にあるとする, ここでの解釈に符合している。「ほんとはまるでちがうきょうだいなのに,…それぞれたがいにうりふたつ」とは,もちろん,未来・過去・現在のそれぞれが排他的でありながら同一性を保持していることを示している。(泉谷氏、7ページ)



・・・上記、泉谷氏の説明するエンデの見解も、同様な誤謬に陥っている。
また、ギデンスはハイデガーを援用して、次のように述べている。

ハイデガーにおいては、現前―それは無から存在が生じるような「現前化(presencing)」として理解される―が、「今(nows)」の無限性としての「現在(present)」に取って代わる。時空間は、もはや、「計算された時間における二つの今‐点(now-points)の隔たりを意味しない。それは「到来(futural approach)〔と過去の現在〕が相互に届け合うようにして開かれ空いたところを名指したものである」(Giddens 1983:78)。(泉谷氏、10ページ)



・・・”過去や未来が現在とともにあるという意味での「同時性」”(泉谷氏、11ページ)とも言えるようだ。

ギデンスがその根拠とする「規則」の「先験性」とは、実のところ、これまでの経験の積み重ねにより導かれた「経験則」がこれからの経験においても適用されるであろう、という推論への確信にすぎない、ということである。

ギデンス、泉谷氏は、「規則」を伴う「論理」がいかなるものか、「論理」とは何なのか、そこに全く無頓着なのである。あたかもそれが「先験的」に与えられるものであるかのように錯覚しているだけなのである。

いずれにせよ、上記のギデンス(ハイデガー?)の見解は、「過去」「現在」「未来」という客観的時間概念を全くエポケーできないまま、その概念を根拠の薄弱な論理によって組み合わせたものであるにすぎないのだ。何度も繰り返すが、「過去そのもの」「現在そのもの」「未来そのもの」はどこを探しても見つかることはない。どこにもないものが届け合ったりともにあったりしようがない。それらはただの概念(言葉)のいじくりまわしに他ならないのである。

**********************

入不二基義著「現実の現実性と時間の動性」『哲学論叢 』(2017), 44: 1-15

を少しだけ読んでみて気が遠くなった・・・が、一応最後までざっと読んでみた・・・。上記のような誤謬を放置したまま、いたずらに概念どうしの辻褄合わせをしているだけのように感じられる。

とにかく、私が「哲学的時間論における二つの誤謬、および「自己出産モデル」 の意義」で示した二つの誤謬を乗り越えないことには、時間に関する哲学的問題は解決することはないのだ。

 実際、永井は<私>や<今>と「これ(この)」をほぼ互換的に使っていて、どれも「中心指向性(収斂性)」とでも呼ぶべき力の向きを共有している。また、第0次内包(私秘性)を指示する「これ(この)」もまた、同様の「中心指向性(収斂性)」という力の向きは共有している。「中心指向性(収斂性)」は、ウィトゲンシュタイン(『哲学探究』253)に倣って言えば、「これ(この)」を強調して言いつつ自分の胸の辺りを叩くジェスチャーによって象徴されるだろう。(入不二氏、2ページ)



・・・純粋経験の主客未分とは、(西田の見解とは別に)ウィトゲンシュタイン自身が言っているように、「形而上学的な主体」はない、ということに尽きる。具体的経験として「形而上学的主体」など実際に現れてはいない、という事実なのである。

それは「自分の胸の辺りを叩」いた場合においてもそうなのである。そこには体を動かした際の体感感覚と(触感含む)、「これ」と言ったのであればその言った言葉と、それだけなのであって、「中心指向性そのもの」の経験などどこにも現れてなどいないのである。

それらは、経験と経験とを繋げ、その関係を説明するための「仮説概念」以上のものではない。

「観念的・形而上学的」な私の経験などどこにもないし、「今」という経験などどこにもない。経験しているのは「今」ではないのだ。
 入不二氏は、次のような区分をされている。(入不二氏、4ページ)

(1)「私の現実・現在の現実・世界の現実」:有内包
(2)「現実の私・現実の現在・現実の世界」:脱内包
(3)「現実の現実性」それ自体:無内包



・・・このような区分をすること自体が間違いというわけではないのだが・・・問題は(3)である。

(3)は、人称・時制・様相の表現を消し去ることで、偏在一様な現実を表現しようとしている。結局、(3)によって表現される「現実性それ自体」「無内包の現実」は、無人称・無時制・無様相でもあるということである。「無内包の現実」は、どんな領域への囲い込みや中心化もすべて無効にしてしまう「偏在的な現実」なのである。(入不二氏、5ページ)



・・・「現実」が「偏在的」とかわけわからないが、ここまでの説明においてはまぁそれはそうかなぁ、という感想である。しかし、

「現実」が「現前」「顕在」と取り違えられやすいという点にあるだろう。「現に」という現実性は、ありありと現前しているかどうか、顕在的であるか潜在的であるかとは別のことである。現実はたとえありありと現前していなくとも現実であるし、たとえ潜在的であるとしても、「現に」潜在しているのだから現実に他ならない。現実は、現前と同一ではないし、潜在とも対立しない。(入不二氏、5ページ)



・・・となると台無しである。これでは(1)との混同になってしまう。私が見て居なくても「現実」が存在するというのは、経験の因果的把握に基づく客観世界認識以外の何物でもない。

このあたりも、「哲学的時間論における二つの誤謬、および「自己出産モデル」 の意義」の第二章で説明している。

実際の具体的経験、見えているもの・聞こえているもの・感じているもの、それは否定しようのない「現実性」というか「事実性」としての明証性を有するものである。もちろん言葉(を喋ったり聞いたり読んだり)もそうである。

現実性を、具体的経験から切り離して考えれば、それは既に「仮想世界」の構築、根拠のない架空論理の辻褄合わせとなってしまう。

「現実」であることと「現在」であることとは別のことである。にもかかわらず、(過去や未来ではなく)現在を「ありありと現れている何か」として、特権的な現実であるかのようにみなしてしまうと、現実は現在へと不当に狭まり、現実性は現前性・顕在性に変質してしまう。(入不二氏、5ページ)



・・・このあたり、惜しい見解である。入不二氏は、「現実」と「現在」とは別のことだ、と気づいておられるにもかかわらず、「現前性」と「現在」とを混同してしまっているのだ。「現前」という表現が誤解を生んでしまうのかもしれない。厳密には「現前」というよりも、単に「現れている経験」なのだから。

入不二氏が指摘すべきなのは、「ありありと現れている何か」は「現在そのもの」の経験ではない、ということなのである。それだけで良いのだ。「現実」として「ありありと何かが現れている」のである。ただそれだけのことだ。

そうであれば、(永井氏の言われるように)「現在(今)が端的な現実性」を持つ」(入不二氏、9ページ)かどうかという問題など、お話にならないと一蹴すれば良いだけである。

デジタルな点滅反復」(入不二氏、10ページ)も問題外である。入不二氏ご自身もこの理論が決定的解決になるとは思われていないであろう。

 「時間の経過」は、他の変化(状態変化や位置移動など)の背景として潜在するのみであって、けっして前景化することはない。そこで時間変化は、他の変化(時間変化ではないふつうの変化)に寄生することによってしか、表象することができない。その点では、時間変化は他の変化に依存する。時間の経過が、川の流れや時計の針の移動などの変化、あるいはものの状態変化などに重ねられて表象されるのは、このためであり、その表象的な依存関係は必然でもある。
 にもかかわらず、それ自体は表象され得ない時間変化が背後で潜在進行していてこそ、その他の変化が前景で進行できる(とみなされねばならない)。また、たとえその他の変化が起こらなかったとしても、時間変化のほうは表象されないだけで潜在進行している(とみなされねばならない)。その点では、時間変化は、他の変化に依存しない絶対的な変化なのである。
(入不二氏、10〜11ページ)



・・・このあたりの見解も惜しいところではある。入不二氏は経験を素直に受け取れば良いだけなのである。「時間が前景化することはない」とはどういうことか・・・それは経験として現れることがない、ということなのである。

そして、時間というものが、夜明けとか日没とか、星や月の動きとか、水晶振動子の周期であるとか、そういう具体的な物の動きで定義づけられていることも事実なのである。つまり、

経験の変化が時間の変化と見なされている、ということであって、
時間の変化が”潜在進行”しているから経験の変化が生じるのではない、

ということなのだ。「時間変化が潜在進行している」という見解はまさに、入不二氏が使われている「有内包の水準」の認識に外ならない、ということなのである。
(2018.3.28[水])
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存在の観念は、なにかある対象の観念と結びつけられても、この観念になにも付け加えはしない


今、あまり集中できる状況ではなくて・・・『人性論』(ヒューム著、土岐邦夫・小西嘉四郎訳、中央公論社)じっくり読み込みたいのだけど、とりあえず少しづつ進んだり戻ったりしているところである。私がこのウェブサイトで公開している見解に一番近いのは西田よりもむしろヒュームではないかとさえ思えてくる。

もちろん時代的な制約からか、おかしな箇所もある。情念や欲望、感動の「印象」についての説明も到底納得できるものではない(ただ、読みようによっては哲学的可能性があるようにも思える)。

ヒュームの言う「観念」はideaではなく心像image(視覚に限らず)ではないかと思える(それが時にイデア的意味合いで使われることで論理の飛躍がもたらされている可能性があるが・・・これについてはこれからじっくり検証していく)。実際「印象」も「観念」も「心像」であるとヒュームは述べているのだが。

しかし、時間や存在についての以下のヒュームの説明は、かなり私自身の見解と重なるところがある。

われわれが時間の観念を形作るのも観念や印象の継起によるのであって、時間がそれだけで現れたり、心に気づかれたりするのは不可能である。われわれが継起する知覚を持たないときにはどんな場合でも、たとえ対象に実際には継起があるとしたところで、われわれは時間についてなにも知ることはできないのである。時間は、それだけで心に現れたり、動かず変化しない対象に伴って心に現れたりはできず、つねに、ある変化する対象の知覚しうる継起によって見いだされる、と結論してもよかろう。(ヒューム、35ページ)



・・・このあたり、拙著

哲学的時間論における二つの誤謬、および「自己出産モデル」 の意義
http://miya.aki.gs/miya/miya_report17.pdf

・・・における時間論と共通するものがある。「時間が流れているから経験が変化するのではない。経験の変化を時間の流れと呼んで いるのである。」と私は述べている(宮国、6ページ)。

存在の観念は、存在しているとわれわれが思いいだくものの観念とまさしく同じものである。なにかをただ反省するのと、それを存在するものとして反省するのとは少しも違わないのである。存在の観念は、なにかある対象の観念と結びつけられても、この観念になにも付け加えはしない。(ヒューム、37ページ)



知覚、すなわち印象と観念以外のものはけっして実際に心に現れぬこと、そして、外的事物は、それが引き起こす知覚によってのみわれわれに知られるようになること、これは哲学者によって広く認められており、それに、それ自体としてもかなり明らかであると言えよう。(ヒューム、37ページ)



・・・実際のところ、印象と観念以外に「言葉」があるのだが・・・あともう一つ”存在の「観念」”という”心像”が実際にあるのか、ヒュームによく検証してもらいたかったが・・・それ以外については全くそのとおりだと思う。しかしこのことが、現在において「哲学者によって広く認められて」いるようには到底思えない。「存在」というものをあたかも”実体”があるかのように扱い分析すること(概念の実体化の錯誤)が、むしろ現在では主流になっている気さえするのだ。

そのあたりのことは、以下のレポートで詳細に説明している。

「イデア」こそが「概念の実体化の錯誤」そのものである 〜竹田青嗣著『プラトン入門』検証
http://miya.aki.gs/miya/miya_report11.pdf

・・・上記レポートにおいては本文のみでなく、付録でも、

森岡正博+寺田にゃんこふ著『まんが哲学入門 生き るって何だろう?』講談社現代新書
古東哲明著『ハイデガー=存在神秘の哲学』講談社現 代新書

における「存在」の分析がまさに「概念の実体化の錯誤」に陥っていることを指摘している。

「存在の観念は、なにかある対象の観念と結びつけられても、この観念になにも付け加えはしない」ということは、言い換えれば、存在とは「言葉」であって、「存在そのもの」という言葉に対応する心像やら印象の「経験」などどこにも見つけることができない、ということなのだ。
(2018.3.27[火])
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「関係そのもの」の経験が”ある”事態の方がむしろ奇妙(というか想像不可能)ではないか?


一ノ瀬正樹氏
ヒュームは「因果関係は思い込み」と考えた
原因と結果の迷宮(3)因果関係は私たちの癖である
http://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=1598

・・・を見つけた。

私にとって「関係そのもの」の経験がない、という事態は自分自身でわりと自然に気付いたことなので、いまさらヒュームを読んだところで何ら衝撃はなかったのだが。

そのことがなぜ衝撃なのか、正直不思議である。むしろ「関係そのもの」の経験がある方がよっぽど不自然ではないか? あったとしたらいったいそれは何なのだろうか? むしろそちらの方が想像できないというか”衝撃”なのではなかろうか。

一ノ瀬氏は「癖」ということにしてしまっているが、それだけでは説明できない。
ただそう考えてしまう、というだけではそれは「仮説」にすぎないからだ。
「恒常的連接」ということは、疑おうにもそうなってしまう事実、経験がある、ということなのである。何度も(私が)繰り返し述べていることであるが、それはまさに現代における科学的手法そのものではないだろうか。

因果関係と相関関係の違いは絶対的なものではないと思うが・・・このあたりの話は関連する文献をある程度読んでみてから分析した方が良いかもしれない。(一ノ瀬氏の文章もこのあたりから見れないし・・・)


ヒュームは様々な人が研究していて、それぞれおもしろい。
哲学の根本的な問題を、シンプルな形で提示している。
ただ、ヒュームを分析哲学的視点から説明するのはひっくりかえった議論ではないかと思うのだが・・・もちろんヒューム自身の見解のブレ(時代の限界か)もあるとは思う。


ヒュームの「観念」はどう読んでもふつうの「心像」だと思うのだが・・・ideaとは異なるものではないのか。
2018.3.25[日]
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言葉と経験との繋がりがまずあって、パースペクティブは経験から事後的・因果的に導かれるもの


御坊哲さんのブログ(https://blog.goo.ne.jp/gorian21)は、ネット上において私の見解と一番近いところにあるのではないか、と思っているのだが、

御坊哲さん・・・経験論的立場にあって言語論的転回を肯定的に捉えている
私・・・経験論的立場にあって言語論的転回を否定的に捉えている

という違いがあるように思える。あくまで非常に大雑把に捉えた分類であるが・・・

御坊哲さんの以下のブログ記事を批判的分析してみよう。

析空観と体空観
https://blog.goo.ne.jp/gorian21/e/b3af046915ab806338aca1a6061f8891
言葉は浮遊する(2)
https://blog.goo.ne.jp/gorian21/e/e65d4c64cfa2600ad027ef8cfe48600c


つまり、机と言うものに着目してみると、その脚を外してみると単なる板と棒になってしまう。何も減じていないのに、机そのものは存在しない。つまり空である。と言うようなものの見方を析空観と言うのである。それに対して体空観というのは、「すべては空であること」を直感することを言う。(御坊哲氏:析空観と体空観)



・・・この論理の問題点は、「机そのものは存在しない」と言いながら、「机」さらには「脚」「板」「棒」というものの把握を前提として説明がなされている、ということである。「脚を外してみる」というふうに、「脚」というものの存在を前提とした上での説明である、ということなのだ。

「机」「脚」「板」「棒」という言葉とそれに対応する(言葉の意味としての)経験との繋がりがそこにはある、それぞれの言葉に対応するなにがしかの心像やら知覚やらが実際にある、ということを前提とした説明である、ということなのである。

「机」という存在への確信が絶対的真理と言い切れないことは、「机」という言葉に対応する経験が実際にあることの否定とは違うのだ。そこを「無」としてしまうのはロマンチックでかっこ良くはあるが・・・哲学的にはより厳密に説明しなければならないと思う。

思想というものが概念と概念に関する総合判断であるとするならば、空観というものは思想的には空虚である。なぜならばそれは概念の解体に他ならないからだ。体空観というのは、心理学的にはゲシュタルト崩壊と言ってもいいと思う。赤ん坊は視力があってもものを見ることが出来ないという。経験というものが全くないので、地と図の区別ができないからだ。ルビンの壺という絵を見るときは、視点の置き方で地と図が反転しまう。赤ん坊のようにニュートラルなものの見方をすると、視野の中に写るものの意味付けが出来ないのである。(御坊哲氏:析空観と体空観)



・・・上記の説明に関して、「思想というものが概念と概念に関する総合判断」とは具体的に何のことかよくわからない、という問題もあるが、他にも、

・赤ん坊が区別ができない(?)ことと言葉が空虚であることは関係がない
・視点の置き方で地と図が反転することと意味付けができないこととの混同

・・・など、その論理に厳密さがない。ある絵や図などが様々に見えることは、それが言語表現できないということを決して意味していないのである。私は以下の記事で既に説明したのだが、

論理学的誤謬(言葉の意味に関して)
http://miya.aki.gs/mblog/bn2016_04.html#20160406



・・・ある人がそれを「老人が山を登る絵」と見なしたが、別の人が「老人が山を降りる絵」と見なした、そういう事実があったとしても、その絵と言葉との関係が崩壊するわけではない。

ある人にとっては「一人の老人がステッキをついて急な山の斜面を登っている様子」であり、ある人にとっては「老人が山を降りている像」であるのだ(もしそう思う人がいたならば)。ただそれだけのことだ。そして上記の説明においてミック氏もウィトゲンシュタインも言葉と絵とが結びついているという「事実」を既に認めてしまっているのだ。

その絵と「一人の老人がステッキをついて急な山の斜面を登っている様子」「山に登る老人」「山を滑り落ちる老人」という言葉・言語的表現とを結び付けている、それは疑いようもない事実である、ということなのだ。絵と言葉とが結びついているという”事実”を認めた上で、それらの認識が正しいのかどうか初めて分析可能となるのである。

Aさんが上の絵を見て「一人の老人がステッキをついて急な山の斜面を登っている様子」と思い、Bさんが「山を滑り落ちる老人」と思い、お互いに話合ってみれば、「あぁそういうふうにも見えるね」あるいは「私にはそうは見えないね」と感じるであろう。そういうふうに、同じ絵(とAさんBさんによって信じられているもの)を見ながら、お互いに何に見えるかを話し合いながら、言葉と心像との関係を構築・変更しているのだ。ただそれだけの話である。

あらゆる概念というものは我々の関心のあり方によって意味が構成されているのである。体空観というのは禅定を通してその実感を得ることである。つまり概念によって紡ぎだされるものを思想と呼ぶなら、概念を解体させる空観というものは到底思想ではあり得ない。言葉によって伝えるべき内容がもともと伴っていないのである。だからそれをあえて言葉にしようとすれば否定的な表現にならざるを得ない。逆に言えば、否定的な言葉はすべて空観と通底しているとも言える。(御坊哲氏:析空観と体空観)



・・・パースペクティブの問題は広く誤解されていると思う。「あらゆる概念というものは我々の関心のあり方によって意味が構成されている」と言う知識、確信がいかにして根拠づけられているのか、そこが明らかにされねばならない。

先の事例でも示したが、私たちは一つの絵が複数の意味に解釈できることがある、一つの絵と複数の言葉が繋がることがある、そういうことがありうるということを知っている。しかしこれも同じ事例で示したように、あくまでAさんとBさんのコミュニケーションにより初めて知られることなのである(あるいは一人の人が別の日に同じ絵を見直してみて違うように見えた、ということもあるかもしれない)。要するにあくまで経験則であるということなのだ。

つまり、経験論的に考えれば、

・パースペクティブ⇒経験の説明(言葉と経験との関係、御哲坊さんの言われる「意味の構成」)、ではなく、
・経験(言葉と経験との繋がり)⇒経験の積み重ね(因果構築)⇒パースペクティブがあるという把握


・・・というふうになるはずなのである。つまりパースペクティブの前提として言葉と経験との繋がりが先にある、ここを見逃してはならない。

「観点に先立って対象が存在するのではさらさらなくて、いわば(その時々の関心や意識などの)観点が対象を作りだすのだ。かつは問題の事実を考察するこれらの見方の一が他に先立ち、あるいはまさっていると、あらかじめ告げるものは、なに一つないのである。」(ソシュール『一般言語学講義』)(御坊哲氏:言葉は浮遊する(2))



・・・つまりこれは全くもって転倒した見解だと言わざるを得ないのである。


<関連記事>
デュエム=クワイン・テーゼの問題点(経験が様々な言葉で説明できる≠経験と言葉の結びつきに必然性はない)
http://miya.aki.gs/mblog/bn2016_04.html#20160417
2018.3.24[土]
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「精神の被決定性」ではなく、「経験がいやおうなしに与えられること」


ヒュームの言う「観念」は「心像」のことの続き・・・


因果と自然―ヒューム因果論の構造―
http://www.l.u-tokyo.ac.jp/postgraduate/database/2013/91.html
(萬屋博喜氏)

からの引用である。

第3章「必然性と精神の被決定性」では,(T2) の解釈を批判する.ヒュームによれば,必然性の観念の起源は,一方の対象や出来事を思い浮かべれば他方の対象や出来事を思い浮かべてしまうという「精神の被決定性」であるが,それがいかにして必然性の観念を成立させるのかということが従来の研究においては謎のままであった.この謎を解くためにまず,精神の被決定性がいかなる心的状態であるのか,そしてそれはいかにして必然性の思考を成立させるのかという問いを立て,それぞれの問いに対する従来の解釈の応答を検討する.その上で,精神の被決定性が「非表象的な傾性的状態」であることを示し,さらに,精神の被決定性が一定の制約のもとでの「思考可能性原理」によって必然性の観念を成立させることができるという,「傾性説」解釈を提案する.(萬屋氏)



・・・このような説明には違和感を覚えてしまう。先の記事で既に説明したが、

一方の対象や出来事を思い浮かべれば他方の対象や出来事を思い浮かべてしまう」というのは「仮説構築」であり、
それが「必然性」を持つ、ということは、(ヒュームの言葉を借りれば)「印象」として、”常にそうである”という繰り返される事実、というものが根拠となっているのだ。

その上で、「連想」「心像」(ヒュームの言う「観念」)と、実体として受け取られる「知覚」(ヒュームの言う「印象」)との区別の根拠とは何か、ということが問われるはずなのだ。

「精神の被決定性」ではなく、「経験がいやおうなしに与えられること」なのである。

ヒュームがエポケーできていないものとして「心」「精神」というものがある。「精神」の「決定性」や「被決定性」というのは、ウィトゲンシュタインの言葉を借りれば、「私の身体についても報告がなされ、また、どの部分が私の意志に従いどの部分が従わないか等が語られねばならない」(『論理哲学論考』ウィトゲンシュタイン著、野矢茂樹訳、岩波文庫、116ページ)というふうな、「私」に関する因果関係の連鎖を根拠としているものなのである。因果関係を根拠に因果関係を説明することはできないのだ。
(2018.3.23[金])
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ヒュームの言う「観念」は「心像」のこと


あちらこちらに寄り道しているので、あゆみがゆっくりではあるが、ヒューム『人性論』を読んでいる。もう一度また最初から読み直し、やっと第一編第一部を読み終えた(どうせまた読み直すのだが)。

とくに抽象観念に関する見解は、かなり私のものと重なっているように思える。ヒュームと実際に話せたら意気投合できたかな・・・私の思考は、西田よりもむしろヒュームに近いのかもしれない。

ただ、もちろんヒュームの見解にはかなり”ブレ”があるようにも思える。その”ブレ”が『ヒューム 因果と自然』(けいそうビブリオフィル・あとがきたちよみ『ヒューム 因果と自然』のページより)のような”因果関係に基づいて構築される心理学的分析から因果関係を分析する”誤謬をもたらしているような気がする(そのうち実際に著作を読んで分析できたらと思う)。萬屋氏がT1〜T6のテーゼが誤りであると主張していることには同意するのだが・・・

因果推論によって事象の原因や結果を推定したり、事象の原因や結果について判断したりするときに、それらがどのような心的プロセスによって生じるのか、という問題が重要となる。たとえば、トンネル崩落事故が起きた原因について、ああでもないこうでもないと考えているときに、その人の心的状態はどうなっているのか、どういう心的プロセスで推論がなされるのか、といったことが問われる。(萬屋氏、上記ウェブページより)



・・・ここにおける「心的プロセス」が単なる経験の記述なのか、心的メカニズムの分析なのか、そのあたり本文を読んでみないと厳密には断言できないかもしれないが・・・もし、因果律を因果律で説明するようなものであれば、因果律をもたらす心的プロセスとは何か、という説明であったとすれば、それはやはり誤謬である。(やはり本文を読み込む必要がありそうだ)

一方の事象が他方の事象に引き続いて起こるのを観察すると、私たちの心のなかに一つの変化が生じる。それは、一方の事象を観察すれば他方の事象を思わず考えてしまうという、習慣(custom)が心の中に形成されるという変化である。こうした心の習慣によって、私たちは事象の間に因果関係があると思い込んでしまう。このようにして、何かが何かを引き起こすということは、事象の間の恒常的連接と心の習慣によって説明されることになる。
 以上の議論は、私たちの日常的な感覚からすると奇妙なものに思われるだろう。
(萬屋氏、上記ウェブページより)



・・・私にとっては「奇妙」に思えないどころか、これ自体、当たり前というか、現代科学の方法そのものではないか、と思えるのだが・・・

ただ、厳密に言えば「習慣」が形成されるのは「仮説構築」
それを実際に確かめるのは「事象の間の恒常的連接」、ということだろう。

(因果関係の細分化についても考える必要があるが、このあたりヒュームは何か述べているか、調べていきたい)

ただ、私たちの日常生活において仮説的因果関係に基づいて行動することの方がむしろ多いのでは、とさえ思える。厳密に科学的客観性が与えられる事象など、私たちの日常生活においてむしろ少ないのではないだろうか。例えば人の行動の推測などもそうである。

また、本当に、ヒュームがいわゆる「意味の使用説」の観点から「因果関係」という言葉の意味を解明しようとしたのであろうか? もしそうであれば、それはヒュームの”ブレ”なのだと思う。

そのあたり、実際どうなのか、『人性論』をもう少し読み進めて検証してみたい。ここまで読んでみた中においても、けっこうブレは見られる。

拙著、

「イデア」こそが「概念の実体化の錯誤」そのものである 〜竹田青嗣著『プラトン入門』検証
http://miya.aki.gs/miya/miya_report11.pdf

・・・の4ページから(U.“ 概念を実体的なイメージにしたがって操作すること”は「実体化の錯誤」ではない)、のあたりもヒュームの抽象観念に関する見解と共通点があるように思える。

X.因果関係とは(10ページ〜)の内容は、私自身が独自で考えたものがまさにヒュームの見解と合致していた、というものである。

******************************

 人間の心に現れるすべての知覚は、二つの異なった種類に別れる。私はその一方を「印象」、、もう一方を「観念」と呼ぶことにしよう。これら二つの間の相違は、それらが心に働きかけ。思考もしくは意識の内容となるときの勢いと生気との程度の違いにある。きわめて勢いよく、激しく入り込む知覚を印象と名付けてもさしつかえなかろう。そして私は、心に初めて現れるときの感覚、情念、感動のすべてをこの名称で包括することにする。また、観念という言葉で、思考や推論の際の勢いのないこれらの心像を示すことにする。(ヒューム著、土岐邦夫・小西嘉四郎訳『人性論』中央公論社、12ページ)



・・・「観念」は「心像」であると最初にヒュームは断っている。

Philosophy Guides
ヒューム『人性論』を解読する
https://www.philosophyguides.org/decoding/decoding-of-hume-enquiry-human-understanding/

・・・というウェブサイトでは、

印象は大きさや形などのありありと与えられる知覚であり、観念は意味や本質として与えられる知覚である(引用ここまで)



・・・と説明されているが、いったい何の根拠をもって「意味や本質」と断言しているのであろうか? (竹田現象学的見解に引き寄せすぎていないか?)

さらに言えば、抽象観念における説明では、「観念」という用語を実質的に「印象」と重なるような使い方さえしている。そもそも「観念」と「印象」の区別は絶対的ではない。そのあたりはジェイムズがよく説明しているし(問題点も多いが)、ヒューム自身も「勢いと生気の程度の違い」(ヒューム、12ページ)と述べている。

ただ、その「違い」が単なる連想と具体的事象との区別でもあるのだが。
(2018.3.22[木])
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哲学的時間論における二つの誤謬、および「自己出産モデル」 の意義


哲学的時間論における二つの誤謬、および「自己出産モデル」 の意義
http://miya.aki.gs/miya/miya_report17.pdf

・・・を作成しました。
(※ 18日に二章を少しだけ修正してファイルを入れ替えました。)

<目次>
T.はじめに
U.「現実性」と言葉と私
V.「現在(今)が動く」「今・現在を経験している」という誤謬
W.「動かないものがあるから動くものが分かる」という誤謬
X.「自己出産モデル」の問題点および積極的意義

***************

T.はじめに

本稿は、

森岡正博著「独在今在此在的存在者生命の哲学の構築に向けて(9)」『現代生命哲学 研究』第6号(2017年3月):101-156

・・・の時間論について検討するものである。最初に、哲学的時間論の前提となる「現実性」「実在性」「生きられているリアリティ」区別における森岡氏(そして永井氏)の見解の問題点について指摘した後、時間とは何かという哲学的問題の解決を阻む誤謬、


(1)「今・現在を経験している」という誤謬
(2)「動かないものがあるから動くものが分かる」という誤謬

について説明した上で、森岡氏の提唱される「自己出産モデル」についてその問題点および意義について検討する。 森岡氏の「自己出産モデル」は上記(2)の誤謬から逃れられていない一方で、(1) の誤謬から不完全ながらも抜け出し始めている、(森岡氏が分析している)永井氏の見解から一歩先に進めている、積極的意義も有していると言えよう。
2018.3.17[土]
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森岡氏の「自己出産モデル」の積極的意義


先日、

森岡正博著「独在今在此在的存在者 生命の哲学の構築に向けて(9)」『現代生命哲学研究』第 6号 (2017 年 3月):101-156

・・・における時間論について、谷徹著『これが現象学だ』の分析とからめながらその問題点を指摘していこう、と書いたのだが、もう一度読み直してみて、方針を変えることにした。

やはり森岡氏の論文そのもののみを分析していこうと思う。改めて読んでみて、積極的意義が一つあることに気づいた。

森岡氏の「自己出産モデル」とは、「変化」というものを、物語風に脚色して説明しただけで、実質的には「変化している」ということ以上のものを何ら説明していない。

しかし、永井氏が”「現実の端的な現在」と「現実の動く現在」(森岡氏、139ページ)というように「現在」を「現実性」として捉えてしまっている、私が指摘する「今・現在を経験している」という誤謬に陥っているのに対し、森岡氏は「生きられている現象世界」(森岡氏、139ページ)が”「自己出産」する”(森岡氏、139ページ)というふうに、「現在」という概念から離れることが出来ているのである。

その点において、森岡氏は永井氏よりも一歩先に進めているのだと言える。

そして、その「自己出産」(=実質的に「変化」)とは、やはり「現実性」なのである。森岡氏は、

「現実性」のほうには「動き」が内在していない(森岡氏、140ページ)



・・・と説明されているが、そんなことはないのである。一方、

現在が動くということを、「現実性」を巻き込んで説明する必要はないと私は考える。(森岡氏、139ページ)



・・・という指摘は的確なのである。どういうことなのかというと、森岡氏は、ご自身の見解で「現在が動く」という”誤謬”から抜け出せているのにもかかわらず、「生きられている現象世界」と「現在」との混同をまだ引きずっている、ということなのだ。

要するに、「変化」しているのは(純粋)経験なのであり、「現在」が変化しているのではない、ということなのである。

さらに厳密に言えば、変化しているのは「経験」であって、「現象世界」ではないのだが・・・
(2018.3.16[金])
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目の前の光景は「二次元的世界」ではない(+二つの誤謬と規則の問題)


ヒューム『人性論』の分析をしていたのだけど、ヒュームの批判の対象としてのロックの見解についてもある程度知っておくべきだと思って、たまたま見つけた、

春日亮佑著「ロックの『人間知性論』における観念の知覚」『哲学の探求』第
42号、哲学若手研究者フォーラム(2015年):105〜127ページ

・・・がとても面白かったので、あっという間(というのもおおげさであるが)に最後まで読んでしまった(春日氏の分かりやすい説明のおかげかもしれない)。「観念」というものに関する様々な研究者たちの見解をある程度見通せることができてよかった。

もちろん、いろいろとツッコミたいところはある・・・どこから言ってよいかわからないが、そのうち少しづつ説明していきたいと思う。

そのうちの一つ、

我々が球状のものを見る時、そこから視覚的に得られる可感的感覚だけを用いるなら,それは円形の物体として知覚される.(春日氏、112ページ)



・・・これは私たちの視覚が”二次元的”に構成されているという”思いこみ”から来ている。私たちの目の前に広がる光景が一枚のシート状に印刷されているようなものであるという決めつけなのである。

目の前のものを「球状」と思えばそれは「球状」なのであって、”もともと””本来的に”「円」であるものを「球状」だと判断している・・・という見解は、独断的推論以外の何物でもない。

(※ この問題については、拙著「『これが現象学だ』検証」の7〜11ページで既に詳細に説明している。URL:http://miya.aki.gs/miya/genshogaku3.pdf

「机の上に置かれたトマト」を「知覚」する際に,次のように「知覚」していると解釈できる。我々はまず,(1)机の上のトマトの感覚与件を受容する.しかし,これだけでは「机の上」のトマト」という観念は得られない.それをひとまとまりの実体として「知覚」出来ないからである.そこで、(2)受容された可感的な観念を把持する,「把持(Retention)」とは,記憶の他に「心に入ってくる観念をしばらく現実に眺める」(E2.10.1)ことである.・・・(中略)・・・(3)可感的な観念,すなわち視覚像をその範型(Archetype)と比較する.この場合,範型となる実体は感覚的に知覚できない(E2.31.6).それは想定された概念なのであり,仮想的な概念である.(春日氏、112ページ)



・・・これも同様である。「机の上にあるトマト」という映像を恣意的に「ひとまとまりの実体」としている。周囲が何であれ、トマトと思ったのであればそうなのである。そこに「範型」というものが実際に現れていないかぎり、あくまで「仮説的因果推論」の域を出ないのだといえよう。実際春日氏も「仮想的な概念」であると説明されている。

では、その「仮想的な概念」が実際に”作用”しているという根拠はいったいどこにあるのだろうか? 春日氏(ロック?)の論理にはその「正当性」を根拠づけるものがどこにもないのである。

****************

今、

森岡正博著「独在今在此在的存在者 生命の哲学の構築に向けて(9)」『現代生命哲学研究』第 6号 (2017 年 3月):101〜156ページ

・・・における時間論の問題点として、

(1)「動かないものがあるから動くものが分かる」という誤謬
(2)「今を経験している」という誤謬

・・・という二つの誤謬があることを指摘するレポートを書いているところである。この二つの”勘違い”はあちこちで見られる。西田の『善の研究』でも、「統一的或る者」の説明において(1)の誤謬に陥っている。

今回のレポートでは、谷徹氏の『これが現象学だ』の批判的分析とからめながら、上記二つの誤謬について明らかにしていきたい。

とにかく、この二つの誤謬を克服しないと時間論は解決しないのである。

**********

中谷隆雄著「『哲学探究』のウィトゲンシュタイン : 言語ゲーム・規則・共同体」『カンティア-ナ』 (22), 大阪大学文学部哲学哲学史第二講座(1991年):31〜53ページ

・・・を半分読んだ。これについてもいろいろと言いたいことがあるので、少しづつ整理していきたい。

実質的にウィトゲンシュタインは、論理はアプリオリではなく経験から導かれるアポステリオリな経験則である、と言っているようなものだ。ウィトゲンシュタイン自身、このことに気づいていないように思える。「ゲーム」という言葉でそのあたりが見えにくくなっているのかもしれない。

また、クリプキも含めて、「なぜ」とその「原因」を問う、ということは因果推論している、ということでもあるのだ。

因果関係とは何かという議論を置き去りにして、恣意的に推論を重ねていっても、解答に届くはずがないのである。

他にも、ウィトゲンシュタインが見逃したものについて、
http://miya.aki.gs/mblog/bn2017_09.html#20170905
で説明している。

さらに、「意図の作用」とか、本当にツッコミたいところがたくさんある・・・
(2018.3.14[水])
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心像とイデアとの混同、言葉の無視・・・


ヒューム著、土岐邦夫・小西嘉四郎訳『人性論』(中央公論社)の分析をしているところなのだが・・・

「印象という言葉で、生き生きとした知覚が心に生み出される仕方を表わすというふうには理解してもらいたくない。知覚そのものだけを表わすというふうに理解してほしい」(17ページ)


・・・という誠に素晴らしい見解の数行後に、

第二の種類の印象はたいていは観念に起因するのであって、それは次のような順序で起こる。まず、印象が感覚機能を刺戟して、われわれに熱さや冷たさ、渇きや飢え、ある主の快や苦を感じさせる。この印象が心によって写し取られ、写しは印象が消えたあとも残る。これを観念と呼ぶわけである。ところで、この快や苦の観念が心にふたたび現れると、欲望や嫌悪、希望や恐れといった新たな印象を生む。この印象は反省に起因するのであるから、当然、反省の印象と呼んでもよかろう。こうした印象が記憶や創造によってふたたび写し取られて観念となり、今度はこの観念がおそらくさらにほかの印象や観念を起こさせるだろう。(17〜18ページ)


・・・というふうに、(反省の)印象が引き起こされる”心的メカニズム”、”知覚が心に生み出される仕方”を説明してしまっているのだ。ヒュームは自分が何を書いているのか自分自身で理解しているのだろうか・・・?

心的メカニズムとは因果推論の連鎖であり、そのメカニズム自体は「知覚」できないもの、恒常的相伴を認めようにも認められないものなのである。(もちろん、脳の働きなどの因果関係を認めることができないと言っているわけではない)

反省の印象、すなわち情念や欲望、感動であり、これはたいてい観念から生じる(18ページ)


・・・このような考え方は時代的な限界なのだろうか?(やはりジェイムズの方が数歩進んでいるように思える)また、この時代には「情動」という概念(言葉)はまだなかったのだろうか?

とにもかくにも「観念」という言葉が、かなり恣意的に理解されているように思えるのだ。

また、ヒュームの観念に関する議論は、ロックへの反論的な意義も有しているようなので、そのあたりも把握しておくといいかな・・・と探してみたら、ちょうど良い論文を見つけたので読んでいる所である。その論文を読む限りにおいて、ロックやヒュームにおいて(さらにはバークリーも)、やはり心像とイデア的なものとの混同が見られる。イデア的なものとは、「知覚」できないからイデアなのである(そしてそんなものはどこにも見つけることはできない、検証不能な因果推論なのである)。

推論(により導かれるイデア的概念)と知覚との混同は、「言葉」を無視したために生じているのでは・・・とも考えられる(これは推論)。

「観念を複合したり分割したり」そもそも出来るのか? それは心像やら実際に描いた絵やら、そういったものを組み合わせたり分割したりしているのであって、「観念」を分離しているのではない。

とにもかくにも、心像とイデアとの混同、そして言葉の無視・・・

(2018.3.8[木])
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イデア・本質を「知覚」できるのか?


ヒューム著、土岐邦夫・小西嘉四郎訳『人性論』(中央公論社)の分析をしているところなのだが・・・

最初の説明を読む限りでは、印象=知覚、観念=心像、というふうにも受け取れる。
「感覚」の印象と「反省」の印象”(17ページ)とあるから、心像も印象に含まれると受け取ることもできるのだが・・・
おそらく、この本では、心像とイデアとを混同させながら論が進められ、
そのとき「言葉」というものの役割が無視されているのだろうと思う。

本書の冒頭部分に掲載されている、一ノ瀬正樹著「原因と結果と自由と」(1〜24ページ)を読んでも、言葉と経験との関係に関しての誤謬が見て取れる。

「単純」と「複雑」との分類もあくまで相対的なものであるように思えるし、
「印象と観念の中間とも言えるような場合」(19ページ)という分類もあまり意義がないように思える。記憶の状態など場合によりそれぞれである。ただ想起される心像がより明確かぼやけているか、という違いにすぎないように思えるのだ。

Philosophy Guides
ヒューム『人性論』を解読する
https://www.philosophyguides.org/decoding/decoding-of-hume-enquiry-human-understanding/

・・・というウェブサイトでは、

印象は大きさや形などのありありと与えられる知覚であり、観念は意味や本質として与えられる知覚である(引用ここまで)


・・・と説明されている。観念がideaだからそう受け取るのも仕方ないところはあるのだが、実際のところ「知覚」としての「本質」というものなど実際にあるのだろうか?

この人間の学自体に対して与えうる唯一のしっかりした基礎は、経験と観察とにおかれなければならない。(9ページ)


・・・とヒューム自身が述べている。実際に経験として現れない「イデア」というものを哲学の「基礎」としてしまって良いのであろうか?

*********************

ヒュームによると「印象が観念の原因であって、観念が印象の原因なのではない」(16ページ)とある。観念=イデア、だとすると、経験として現れない(言葉のみの)抽象概念の間の因果関係などそもそも成立しない。

一方、「反省」の印象は「たいていは観念に起因する」(17ページ)と反対のことを説明してしまっている。この因果的推論に関しても、観念の「知覚」の経験というどこにも見出せないものが心像の”原因”となっているという分析が成立するのか? 「感覚」の印象が”知られない原因から直接心に起こる”のであれば、「反省」の印象も”知られない原因から直接心に起る”ということになるのではなかろうか?
(実際のところ、双方ともに”知られない原因”ではなく、原因は事後的な因果関係構築により見出されるということなのだが)

知覚と印象・観念、あるいは知覚と心像との関係に関しては、ヒュームよりもジェイムズの方がより正確に把握しているように思える・・・もちろんジェイムズの分析にも問題はあるのだが。

まずは(純粋)経験があり、それが外部からの刺激によるものなのか、自分自身の内部における感覚なのか、現在の知覚なのか(反省的な)心像なのか、それらの区別を根拠づけようとすれば、因果関係の連鎖により確かめるしかない、ということなのだ。(ジェイムズは「文脈」により区別されると述べている)

ヒュームの時代においては、まだ主客のエポケーが中途半端だったということなのであろう。一方で、「印象という言葉で、生き生きとした知覚が心に生み出される仕方を表わすというふうには理解してもらいたくない。知覚そのものだけを表わすというふうに理解してほしい」(17ページ)とある。この点においてヒュームの洞察は、時代の一歩先を行っていたのだとも受け取れる。

<関連レポート>
純粋経験には「意識」も「思考」も「作用」も「証人」もない
〜「意識」は存在するのか(W.ジェイムズ著)の批判的分析

http://miya.aki.gs/miya/miya_report12.pdf
2018.3.3[土]
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西田がモツァルトの経験について論じるとはいかなることか〜西田幾多郎著『善の研究』第一編第四章「知的直観」分析


『善の研究』分析のレポートです。一応これで終わりです。次はヒュームかな・・・

西田がモツァルトの経験について論じるとはいかなることか
〜西田幾多郎著『善の研究』第一編第四章「知的直観」分析

http://miya.aki.gs/miya/miya_report16.pdf

本稿は、西田幾多郎著『善の研究』(岩波文庫)の第一編第四章「知的直観」の分析である。主に、西田が具体的経験の事実を超えた因果推論(思慮分別)と純粋経験とを混同していることを指摘したものである。
最後に、純粋経験に基づく哲学を言語表現するということはいかなることなのか、他者に向けて文章表現するということはいかなることなのか、そういった哲学という学問が有する根本的問題についても議論している。

<目次>
T.知的直観は純粋経験か (2ページ)
(1)質・量は純粋経験かどうかの判断基準ではない
(2)純粋経験が“深遠となる”その“理由”を探すことと、知的直観が純粋経験であることとは、全く別の事
(3)空想と真の直覚の区別はない
U.純粋経験としての知的直観とは(5ページ)
(1)具体的経験の事実としての知的直観
(2)「力」「作動力」「効力」「作用」という純粋経験はない
(3)「統一」「統一的或る者」の「直覚的事実」はない
V.思惟と知的直観(9ページ)
(1)思惟そのものが直観
(2)そもそも「知的」とは何なのか
(3)純粋経験の事実を論理で説明することはできない
W.西田がモツァルトの経験について論じるとはいかなることか(13ページ)
(1)他者について語っていても純粋経験から離れることはできない
(2)経験について他者と合意することはできるのか
<追記>(16ページ)
(2018.3.2[金])

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