今はヒューム『人性論』(土岐邦夫・小西嘉四郎訳、中央公論社)とカント『純粋理性批判』(篠田英雄訳、岩波文庫、上巻) をじっくり読み込んでいるところです。少々時間がかかりそうです。
ヒュームの「観念」、さらには「観念」と「印象」との関係やら、欲望・希望を「印象」としてしまっているところや、「言葉」の位置づけの問題を、きっちり見直しておこうと思います。結局ヒュームの言う「観念」は「心像」と実質的に変わらない印象(ややこしい・・・)を受けます。「抽象的」「一般的」なのは「言葉」「名前」「名辞」であって、「観念」(実質的に「心像」)は常に個別的なのです。だったら「抽象観念」というものはありえない、
ある観念がその本性は個別的なのに、表現作用は一般的であるということ(ヒューム、30ページ)
・・・ということなのです。(ただ「作用」という表現にヒュームの見解の混乱が見られる)
一方でカントにおいては、「概念」というものが、きっちり吟味されていない、61ページの「物体という経験概念」とは何か、そこから「経験的なもの」である「色、硬さや柔らかさ、重さ」などを取り去るとはいったいどういう作業なのか・・・このあたりカントに直接指摘できたらいいのに、とさえ思ってしまいます。
また因果性の必然性に関する説明も、結局はヒュームに収斂されてしまう印象を受けました。他にもいろいろとツッコミたいところがたくさんある・・・
先日一部分析した(こちらです)、
春日亮佑著「ロックの『人間知性論』における観念の知覚」『哲学の探求』第42号、哲学若手研究者フォーラム(2015年):105〜127ページ
について、
ロックは意識を顕在的な意味だけでなく,潜在的な意味でも用いていた.ならば,心の作用による観念の知覚が自動的に行われるからといって,彼が斥けた知識や観念の生得性に抵触するわけではない.自動的な心の作用は,潜在的な意識と共に行われるからである. このように,本節ではロックの観念が多義的であるがために統一性を欠いているという批判が妥当でないことを確認した.確かに彼の観念には少なくとも可感的なものと可想的なものとがあり,その限りにおいては多義的だと言えよう.しかし,それらは「知覚」のあり方の説明において連関と統一性を持っている.そしてそれらは実は,「知覚」について考察し記述するために,ロックのいわば道具として想定されているのである.(春日氏、114〜115ページ)
・・・「潜在的」「仮想的」なものは、経験として現れないから「潜在的」「仮想的」なのです。つまりこの仮説的概念から経験を説明しようとしてしまえば、経験論の意義は全くなくなってしまう。実質的には合理論と何ら違いはないと言えるでしょう。(あるいは主観・客観をエポケーできていない、この時代の経験論そのものの限界と言えるかもしれない)
また「生得性」というものについては、具体的経験からいかに「生得性」という見解が導かれているのか、いかなる場合に「生得的」と見なされるのか・・・結局具体的経験と照らし合わせながら検証していくしかないのです。
そして、その作業は、ヒューム的「因果関係」の構築によって可能になっている、ということも忘れてはならないと思います。
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時間論や因果関係に関する見解など、私自身が展開してきた理論はヒュームのものにかなり近いです。おそらく私の純粋経験論は西田やジェイムズよりもヒューム寄りのもののようです。
拙著、
哲学的時間論における二つの誤謬、および「自己出産モデル」 の意義 http://miya.aki.gs/miya/miya_report17.pdf
の時間論はヒュームの見解を修正・完成させたものであると思います。
しかし、上に述べたように、観念と言葉との関係に関してヒュームはブレているところがあるし(「抽象観念」に関する見解もかなりブレている)、自我や欲望に関する見解もかなり修正・補足が必要であるように思えます。これからさらに『人性論』の批判的検証を進めていくつもりです。
(2018.5.26[土])
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