2018年06月の日記


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感覚与件そのものが単独で基礎づけの”働き”をするのではない


護山真也著 「仏教認識論と〈所与の神話〉」『信州大学人文科学論集』(2)、2015年、43〜56ページ
について、付け加えであるが・・・

このような経験論に対するセラーズの批判が,「所与の神話」として知られる議論である。ラッセルをはじめとする20世紀前半の論理実証主義者たちの見解では,経験的知識はそれが「知識」(knowledge)である以上,正当化の要件を満たさなければならない。ある信念が別の信念によって正当化されるとしても,その正当化した方の信念もまた別の信念によって正当化される必要がある。こうして,経験的知識を正当化する,基盤となる信念を探っていくと,最終的には,それ自体で不可謬な感覚そのものにまで遡行する。(護山氏、43〜44ページ)


 これに対してセラーズは,「感覚与件をはじめとする所与なるものは,経験的知識を基礎づけることはできない」と断じる。感覚与件を捉える心の働きは「感覚」と呼ばれるが,それは個物(particular)を対象とするものであり,事実を対象とする知識ではない。知識の資格をもたないものは,他の知識を正当化することはできない。つまり,そのような感覚は,理由の論理空間(logicalspaceofreason)に位置づけられない。感覚を理由の論理空間の中に位置づけるためには,〈感覚はある種の認知的な経験であること〉を認めるしかない。しかし,そのことは,感覚がもはや感覚与件という個物に関係しないことを含意する。論理実証主義者が言う基礎づけ主義は,感覚与件に関するこの深刻なジレンマを無視したところで構築された,一種の神話にすぎない。(護山氏、44ページ)



・・・セラーズは、感覚与件が経験的知識を基礎づけるためには、「感覚が認知的な経験である」必要があると述べているが、これはおそらく、

感覚そのものが単独で知識の基礎づけの”働き”をする必要がある

・・・というイメージを持ってしまっているからではなかろうか。


この誤ったイメージが、所与の神話につながっている気もする。

感覚そのものだけで真理がもたらされるのではない。明証性を持つ経験、経験的知識となる経験とは、

言葉(という経験)と経験(知覚やら心像やら)が繋がった、言葉と経験とが関係づけられた

・・・という経験的事実なのである。


多くの哲学者たちはなぜか「言葉」という経験を扱いたがらない。そしてしばしば「言葉」が無視される。あるいは言葉と経験との繋がりが実際に具体的経験としてあるのに、それを不当に無視しようとする。不思議である。一方、なにがしかの作用付きの「概念」というものに執着している、本当に不思議である。(これも因果関係をアプリオリと思いこんでいる誤謬に基づくものかもしれない。経験が現れるのに作用が必要と思うのは、結局そういうことなのである。)

「理由の論理空間」というものについてももう少し調べる必要があるが・・・これも昨日述べたように、別に経験が「理由の論理空間」にある必要もなったくないし、そもそもが、そんな空間が真理概念の根拠に関して必要であるとも全く思えないのである。

⇒そして前日の記事に続く・・・

「所与の神話」という誤謬

 
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今、ヒューム『人性論』の抽象観念のところをまとめている最中であるが・・・こういった議論もあることを念頭に置いておこうとは思う。

結局のところ、言葉に対応する経験(感覚かもしれないし心像かもしれない)は、常に「個別的」なものでしかない。さらに言えば、言葉と経験との関係づけもやはり個別的なものでしかないのである。

その上で、抽象概念と呼ばれるものは、どういう位置づけを与えられるのか、そういう道筋で考える必要がある。

 人間を例にとると、人間という抽象観念はあらゆる大きさ、あらゆる性質の人間を表現しているが、これができるためには、あらゆる大きさ、あらゆる可能な性質を一度に表現するか、それとも個々のものはまったく表現しないか、そのいずれかでなければならぬことになる。(ヒューム著、土岐邦夫・小西嘉四郎訳『人性論』中央公論社、26ページ)



・・・こういった議論は、ロックやバークリーらの過去の議論を念頭においたもののようだが、実際のところちょっと的外れなのだ。

(今日はここまで・・・)
(2018.6.28[木])
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「所与の神話」という誤謬


護山真也著 「仏教認識論と〈所与の神話〉」『信州大学人文科学論集』(2)、2015年、43〜56ページ

・・・を読み始めた。

わけてもロック(JohnLocke,1632-1704)やヒュームDavidHume,1711-1776)に代表されるイギリス経験論の伝統において,私たちの目前にあるはずの物理的対象とは別に,私たちの意識に直接的に与えられたものとして赤さなどの色,特定の香りや味などの表象があるとされる。後に「感覚与件」(sensedatum)と呼ばれる,これらの表象が経験的知識の基層を成す。(43ページ)


・・・このあたりの説明が納得できない。もちろん理論の不備はあるが、ヒュームは「印象」と「観念」しかないと述べている。ただ彼自身の理論に多くの穴があり、その枠組みで説明できないものを含んでしまっていることは否めない。それゆえに上記のような誤解を生んでしまうのかもしれない。

このような経験論に対するセラーズの批判が,「所与の神話」として知られる議論である。ラッセルをはじめとする20世紀前半の論理実証主義者たちの見解では,経験的知識はそれが「知識」(knowledge)である以上,正当化の要件を満たさなければならない。ある信念が別の信念によって正当化されるとしても,その正当化した方の信念もまた別の信念によって正当化される必要がある。こうして,経験的知識を正当化する,基盤となる信念を探っていくと,最終的には,それ自体で不可謬な感覚そのものにまで遡行する。(43〜44ページ)


 これに対してセラーズは,「感覚与件をはじめとする所与なるものは,経験的知識を基礎づけることはできない」と断じる。感覚与件を捉える心の働きは「感覚」と呼ばれるが,それは個物(particular)を対象とするものであり,事実を対象とする知識ではない。知識の資格をもたないものは,他の知識を正当化することはできない。つまり,そのような感覚は,理由の論理空間(logicalspaceofreason)に位置づけられない。感覚を理由の論理空間の中に位置づけるためには,〈感覚はある種の認知的な経験であること〉を認めるしかない。しかし,そのことは,感覚がもはや感覚与件という個物に関係しないことを含意する。論理実証主義者が言う基礎づけ主義は,感覚与件に関するこの深刻なジレンマを無視したところで構築された,一種の神話にすぎない。(44ページ)



・・・こういう考え方になってしまうのは、以下のような思考によるものであると考えられる。

(1)経験を論理で説明しようとしてしまう誤謬
(2)因果関係をアプリオリと考える誤謬、”理由”を最終的根拠に求めてしまう誤謬
(3)経験による判断が間違ってしまう可能性、錯覚してしまう可能性があるという判断が、そもそも経験則(経験の因果関係による結びつき、そしてそれらの積み重ね)によるものであることを見逃している。それらのプロセスそのものも結局経験として説明するしかないのである。

もっとも、

最終的には,それ自体で不可謬な感覚そのものにまで遡行する。(44ページ)



・・・という見解は理解できなくもない。言葉と経験とのつながり、経験と経験との同一性(同様に差異も)は究極的には論理で説明できない場所に行き着く。(このあたりの話は、拙著、哲学的時間論における二つの誤謬、および「自己出産モデル」 の意義でも扱っている)
また思考に情動的なものが入り込んでいることも事実である。

ただ、言葉と経験とが結びついた、その事実は明証性を有する。そこに見えているものを「リンゴだ」と思ったことは事実なのである。その上で、

・どのようなときそれが錯覚ではないと判断されるのか
・どのようなとき科学的客観性がもたらされるのか

ということを具体的経験として説明することは可能なのである。目の前のものをリンゴだと思ったことは事実であるが、よくよく見ると別の素材でできた偽のリンゴだった、ということはありうる。その錯覚を認めるプロセスを経験的事実として説明することは実際可能なのである。

分析哲学者たちは、こういった具体的な真理検証プロセス、科学の世界において当たり前に考えられているであろう、こういった具体的経験プロセスを全く無視し、経験そのものが論理的に証明されなければ「真」にならないかのような錯誤に陥っているのではないのか。

護山氏は上記の説明に対し、論文の目的として、

本稿の課題はむしろ,経験論の一類型としてのダルマキールティの知覚論が〈所与の神話〉の射程に入るか否か,また,彼の議論が〈所与の神話〉から抜け出る方策になにがしかの貢献をなしうるかどうか,を検討することにある。(44ページ)


・・・としている。これからじっくり読んでみるが、ぱっと見たところ、護山氏の議論は因果関係をエポケーできていないものになっている印象である。

因果関係をエポケーできない経験論は、上記「所与の神話」の問題点を洗い出すことができるとは思えないのだが・・・まだ最後まで読んでいないので、最終的判断は保留しておくべきか。

 
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荒畑靖宏著「経験と世界への開け ――マクダウェルの「最小限の経験主義」のための 存在論的前提――」『成城文藝』(205)、2008年、114〜92ページ

・・・も少し読んでみたのだが、マクダウェルの見解はいったいどこの世界の話なのだろう? と感じざるをえない。

世界や実在それ自体が源泉である知識や信念が、あるいは「経験的」世界に応ずべき思考――「経験的」思考――の存在が否定されるべきでないのなら、経験的世界への通路である「経験」とは、まさにその裁定の場であるのでなければならない。ゆえに必要とされているのは、「経験が法廷となって、われわれの思考が物事のあり方に責任を負う――われわれの思考が思考としてそもそも理解できるのであれば、そうでなければならない――のを媒介しなければならない」という考えである。すると経験は、規範的な本性をもつ状態ないし出来事でなければならないことになる。(25〜26ページ)



・・・このあたりの論理の道筋がよくわからないのであるが・・・事実認識の正しさと価値観の問題とが混同されてしまっているのではなかろうか?

これをマクダウェルは、経験は「理由の論理空間(the logical space of reasons)」に属する、と表現する。(26ページ)



経験を理由の論理空間に属するものと考えることはできないという確信である。「経験」ということで考えられている世界と人間との直接的接触の場は、両者の因果的作用の場――自然上の出来事――のことであり、したがって経験は、むしろ理由の論理空間とは対置される論理空間に、すなわち典型的には自然科学によってもたらされる 理解可能性(因果的法則性)が支配する「自然の論理空間」ないし「法則の領界」に属する。したがって経験とは、それに対してわれわれが規範的な関係をもてるようなものではありえないことになる。(26ページ)


・・・いったいどうやったらこんな話になるのか? 因果的法則性が経験の前提となってしまっている。この断定の根拠はいったいどこにあるのだろうか?

まったくもってマクダウェルの独断的空想世界の話のようだ。

経験に基づいて、いかなる場合に私たちは価値観という言葉を用いるのか、なにをもって「理由」としているのか、なせそういう話にならないのだろうか?

おそらく、マグダウェルの試み、「シーソーから降りる」(26ページ)とは、自発的な意志・信念を持つ精神と、因果法則を受動的に受け入れざるをえない自然、という二分法をエポケーできないまま、その二つを疑似論理的・仮想論理的につじつまを合わせようとすることではないかと考えられる。

マクダウェルにとって「経験」とは、そのうちで概念能力が受動的に引き出されて働いているようなエピソードないし状態のことである。(27ページ)



・・・この経験の定義がいったい何によって根拠づけられるのか、そのあたりがまったく謎のままなのである。

 
(2018.6.27[水])
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直示的概念と命題的概念は、単なる言語表現の違いにすぎない


村井忠康著「知覚と概念―セラーズ・マクダウェル・「描写」―」『科学哲学』45(2)、2012年、99〜114ページ

・・・を読んだ。感じたことをメモしてみる。

マクダウェルは知覚経験に命題的な概念的内容を認める。彼が出発点とするのは、経験と信念のような思考とのあいだに正当化関係、すなわち、前者が後者の理由となりうるという関係が成り立つという前哲学的な常識である。この常識を前提のひとつとして、知覚経験が概念的内容をもっていると示そうとするのが、概念主義を擁護するための彼の議論である。(101ページ)


・・・「知覚経験は命題的な概念的内容をもっている」(101ページ)という表現には違和感を抱いてしまう。

そうではない。知覚経験があり、命題として現れた言語という経験があり、それらがつながった、というだけなのではないか? 知覚経験が命題的言語で表現された、とした方がより正確か。

概念的内容を持つ知覚経験”に対して”信念”を持つ、「経験による信念の正当化」(102ページ)という表現は注意が必要だ。

(1)言葉と経験との関係づけ
(2)ある新たな経験と、既に言葉に関係づけられている(過去のものと思われる)経験との同一性(あるいは類似性)を認めるかどうかという問題(言葉の定義にその経験が当てはまるのか、という問題もこれに含められる)

・・・言語表現の正しさの問題は、要するにこういうことなのだ。

ただ、私たちは言語を日常的に用いることで、いちいち言葉に対応する心像やらを思い起こすことなしに判断することもできる。(このことが話をややこしくしているような気がする。さらには言葉の意味は変化しうることもさらに話をややこしくしている。)

しかし、その言語表現が本当に「正しい」のか確かめようとすれば、個々の具体的経験を持ち出して検証するしかないのである。

また、セラーズは、経験と概念との個別の結びつきしか考えていないようにも思える。しかし実際にはそうではない。

どういうことかというと、ある経験について、それは「立方体」でもあるし、それは「赤」でもある。
つまり、ある知覚経験とつながりうる言葉は一つではないのだ。他にも「大きい」「小さい」やら「美しい」やら、いろいろな言葉と結びつきうるのだ。

それ故に「この立方体は赤い」という”命題的概念”が成立し、それが「正しい」と思えるのだ。つまりその命題が正しい=主語・述語ともに同一の対象としての経験を指している、ということである(本事例については)。

また、「この赤い立方体」と表現すれば”直示句”(104ページ)であっても、「この立方体は赤い」と表現すれば”命題的概念”になる。しかしどちらも結局は同じことである。

つまり、「知覚の個別性と具体性の両方を尊重できるような概念主義を提案する(107ページ)必要はないし、「命題主義的な概念主義を放棄し非命題主義的概念主義を唱え」(110ページ)る必要もない。

そして当然、

マクダウェルにとって事実は真なる命題である。とすると、命題は抽象的存在者である以上、知覚される事実もまた抽象的存在者であることになる。(101ページ)


・・・という話にはなりようがない。

あえて命題主義的な概念主義の枠組みのなかで個物の知覚のための余地を見出そうとすれば、それは事実の知覚と同一であるということになるだろう。(102ページ)


・・・という村井氏の主張は、結局概念主義の否定になってしまうのではなかろうか。

そもそもが”事実の知覚”とはなんなのか? ”事実の知覚と同一”とは何のことを言っているのであろうか?


言語共同体への参入を通じて概念能力の体系を獲得することによって、われわれは、感覚的側面に加えて概念的側面を具えた知覚経験をもつことができるようになる、というセラーズの見解に言及した。ハイブリッドな経験観をとるセラーズに従うなら、われわれが成熟するなかでわれわれの感覚能力に起きる変化は、その本質的なあり方は変わらないまま感覚能力が概念能力と協働できるようになることとして理解されるだろう。しかし、そうした変化を捉える水戸として、感覚能力そのものが概念能力の獲得によって変容するという考え方がありうることは無視されるべきではない。(103ページ)


・・・要するに、人から言葉を教えてもらう、ということである。そして、言葉を知る以前と以後とで、知覚のあり方が変容するのかどうか、それは実験やら様々な経験の積み重ねやらで具体的に調べれば良い話である。

そして、知覚のあり方が変わろうが変わるまいが、言葉(という経験)と経験(知覚など)との関係であることに変わりはなく、命題的な概念内容であれどうであれ、それは言語表現、そしてそれに対応する具体的経験がその”命題的な概念内容”の意味としてある、ということであるのだ。

セラーズが「産出的想像力」という表現によって、感覚能力と概念能力の二つの側面をもつひとつの能力を意味していることを押さえておきさえすればよい。知覚経験はこの能力の働きによって形成されることになる(104ページ)


・・・感覚「能力」、概念「能力」という表現にも違和感があるし、セラーズの言う「知覚経験」にも違和感がある。

絵を描くときに、既に知っている言葉(とその意味)、この論文で言うところの「概念能力」が必要かどうかは、言葉の意味の問題とはあまり関連がないようにも思える。

概念能力がかかわっているかいないのか、それはあくまで事後的な因果分析、さらには人々が絵を描くという個別の経験において、果たしてそういった能力が常に関係しているかどうかなど、いかにして証明するのであろうか?

絵を描くとき、音楽を奏でるとき、言語能力・概念能力が関係するときがあるかもしれないし、関係していないときがあるかもしれない。ただそれだけのことである。

また、村井氏の言われるイメージも、あくまで個別の具体的イメージである。それがイメージ「モデル」(106ページ)になる可能性を否定するものでもない。ただ、それらのイメージは、やはり具体的感覚、具体的経験であることに変わりはない。

イメージであろうと、実際の知覚(と思われているもの)であろうと、言葉と経験との関係づけであることには変わりないのである。「モデル」「レシピ」(105ページ)となりうるのはイメージだけとは限らない。ある具体的事物を指標とする場合もあろうし、私たちは花や木を同定するのに絵や写真が掲載された図鑑を用いたりもする。
(2018.6.26[火])
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深遠なる哲学とは錯誤的世界(=抽象概念の罠)に深く深くはまりこんでしまった思考ではなかろうか


ヒューム『人性論』分析を続けているところである。

T章は、「観念」=心像、と最初に述べられていること、そしてヒュームが「印象」⇒「観念」という理論的枠組みを出発点としているにもかかわらず、その「印象」⇒「観念」では扱えないものを前提としてしまっている、ということを説明している。
具体的には、「心」「習慣(=心のはたらき)」「名辞・言葉・名前」である。

このうち「心」「習慣」は具体的経験として現れてはいないにもかかわらず、ヒューム理論の前提となってしまっているもの、
「名辞・言葉・名前」は具体的経験として現れているにもかかわらず多くの場合無視されてしまっているものである。

U章はヒュームの言う「抽象観念」の問題点について。ある時は名辞・名前が説明に加わり、ある時には除外される(忘れさられる?)。
観念は常に個別的であるとヒューム自身述べている。抽象観念におけるヒュームの説明ははっきり言って支離滅裂である。

結局のところ「抽象的」「一般的」なのは観念ではなく「言葉」だということなのだ。

この章では数学についても何かしら述べておくつもりだ。

V章以降は、時間論やら、自己同一性と言われるものの正体とか、存在や信念、さらには意志・欲望、情念に関するヒューム理論の混乱を指摘し、経験論を徹底することでそれらの問題を解きほぐしていく。

ヒュームの理論は(とくに基準があるわけではないが)別に深遠なるものでもない。ただ哲学の主要問題に真正面から取り組むものばかりだ。深遠なる哲学とは、錯誤的世界(要するに抽象概念の罠)へ深くはまり込んでしまったもののことを言うのではなかろうか。
(2018.6.25[月])
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知覚として現れない「自己」に同一性など認める術もない


ヒューム『人性論』最後まで読んだので、分析まとめているところです。そのうちPDFファイルで公開します。問題点多いので、ファイル分ける必要があるかもしれません。

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人間とは、思いもつかぬ速さでつぎつぎと継起し、たえず変化し、動き続けるさまざまな知覚の束あるいは集合にほかならぬ(ヒューム『人性論』土岐邦夫・小西嘉四郎訳、中央公論社:110ページ)


・・・というのはヒューム理論を知る人にとっては有名な文であるが、果たして「知覚の束」とは何なのであろうか? 知覚が「束」になるという知覚(経験)はどこにあるのだろうか? もちろんそれを概念図で描いたりすることはできよう。しかしそれはあくまで“図”であって、私たちが実際に知覚している経験そのものとは違うものではなかろうか。
 さらに言えば、仮に知覚が束になったからといって、それが「自己」であるという根拠はいったいどこにあるのだろうか? 知覚はあくまで知覚である。それ以上でも以下でもない。
 ヒュームは知覚の同一性はいかに成立するかを説明することで(これも因果的説明であるのだが)、自己同一性の根拠にしようとしているのだが、それはあくまで個別の知覚に基づく、個別の事物の存在・同一性・継続性を示すことでしかなく、「自己同一性」に関しては何の説明にもなっていない。
 結局のところ、そういった「自己」などどこにもないのである。厳密に言えば、観念的な自己、形而上学的な自己がない、と言った方が正確か。一方、実際に個体としての「私」(そして他者)が存在していることは、現実問題として明らかなものである(もちろん絶対的真理としてではない)。


(・・・一部抜粋です。変更あるかもしれません。)
2018.6.17[日]
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言葉も経験している


ヒューム『人性論』(土岐邦夫・小西嘉四郎訳、中央公論社)の第二篇を読んでいるところである。

ヒュームの経験論は、本人が告白しているとおり、まだ迷いがあり、経験論完成への”道半ば”といったところか。

西田幾多郎の『善の研究』第一編の分析も苦労したが、同じくヒュームの『人性論』も、様々な論点が混同され、取り違えられたまま論じられてしまっている。

これらのもつれた糸を解きほぐす作業は骨が折れるが・・・おそらく私にしかできない作業である気がする。別に誰に頼まれたわけでもないのだが・・・一度最後まで読んでから、きちんと文章化してみたいと思う。

ヒューム理論の問題点は、重要なものとして

@「言葉」も経験しているということを見逃している。ヒュームが『人性論』という本を書いて、それを私たちが読んで情報を共有している事実をどう説明するのか。
A”知覚として現れる”「観念」とはいったい何なのか、ヒューム自身説明できるのか? 「観念」が具体的に何なのか、ヒュームの説明にはブレがかなりある。
B因果関係をエポケーしきれていない。因果関係を前提として因果関係を説明する構造、つまり「循環論法」に陥っている。『人性論』の副題にある「実験的推論方法」とは、要するに因果推論のことである。さらに具体的に言えば、ヒュームは印象と観念との間の因果関係から出発して理論を構築してしまった。

第二篇においては、上記@に関連して、

言葉と経験との関係(言葉の意味)と、経験と経験との関係(因果関係)との混同

・・・という問題もある。ある事物・現象を見て快・不快を感じるという経験の事実を「誇り」「卑下」という”言葉”で表している、言語表現している、ということであって、

「観念」と快・不快の「印象」の連合が「原因」となって(誇り・卑下などの)「情念」(の印象)が生じるのではないのである。

ヒュームは「言葉」を置き去りにしているから、この違いを見抜けない。「印象」「観念」という用語で説明しているから、説明が混乱してしまうのだ。

さらには、第二篇において、突然「自己」というものが「対象」となってしまっている。そんなものなどないのではなかったのか?(※「自己」がない、というのは「観念的自己」「形而上学的自己」というものの否定であって、物体としての「自己」を否定するものではない。)

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そのほかにも、

過去の出来事に対する「信念」と因果推論に対する「信念」との混同・・・「信念」に関するヒュームの混乱を解きほぐす必要もありそうだ。

同一性は疑問視するのに差異は疑問視しない、これは多くの哲学者に見られる傾向である。経験は常に移り変わるのか? 同一性が(究極的には論理で)説明できないのであれば、差異だって説明できないはずである。

・・・まだまだあるので、何度か読み直しながら、論点を整理していこうと思う。

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<関連レポート>

哲学的時間論における二つの誤謬、および「自己出産モデル」 の意義
http://miya.aki.gs/miya/miya_report17.pdf

・・・同一性と差異の関係、言葉と経験との繋がり(が究極的に論理では説明できないこと)などについても説明しています。このレポートはヒューム的時間論の完成形だと思います。

西田がモツァルトの経験について論じるとはいかなることか
〜西田幾多郎著『善の研究』第一編第四章「知的直観」分析

http://miya.aki.gs/miya/miya_report16.pdf

「意志」とは「言葉」
〜西田幾多郎著『善の研究』第一編第三章「意志」分析

http://miya.aki.gs/miya/miya_report15.pdf

・・・(ジェイムズ・西田含め)経験論では「言葉」が不当に無視されています。

『これが現象学だ』検証
http://miya.aki.gs/miya/genshogaku3.pdf

・・・38ページからの「記憶とは?」を見てほしいです。
2018.6.10[日]

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