護山真也著 「仏教認識論と〈所与の神話〉」『信州大学人文科学論集』(2)、2015年、43〜56ページ
・・・を読み始めた。
わけてもロック(JohnLocke,1632-1704)やヒュームDavidHume,1711-1776)に代表されるイギリス経験論の伝統において,私たちの目前にあるはずの物理的対象とは別に,私たちの意識に直接的に与えられたものとして赤さなどの色,特定の香りや味などの表象があるとされる。後に「感覚与件」(sensedatum)と呼ばれる,これらの表象が経験的知識の基層を成す。(43ページ) ・・・このあたりの説明が納得できない。もちろん理論の不備はあるが、ヒュームは「印象」と「観念」しかないと述べている。ただ彼自身の理論に多くの穴があり、その枠組みで説明できないものを含んでしまっていることは否めない。それゆえに上記のような誤解を生んでしまうのかもしれない。
このような経験論に対するセラーズの批判が,「所与の神話」として知られる議論である。ラッセルをはじめとする20世紀前半の論理実証主義者たちの見解では,経験的知識はそれが「知識」(knowledge)である以上,正当化の要件を満たさなければならない。ある信念が別の信念によって正当化されるとしても,その正当化した方の信念もまた別の信念によって正当化される必要がある。こうして,経験的知識を正当化する,基盤となる信念を探っていくと,最終的には,それ自体で不可謬な感覚そのものにまで遡行する。(43〜44ページ)
これに対してセラーズは,「感覚与件をはじめとする所与なるものは,経験的知識を基礎づけることはできない」と断じる。感覚与件を捉える心の働きは「感覚」と呼ばれるが,それは個物(particular)を対象とするものであり,事実を対象とする知識ではない。知識の資格をもたないものは,他の知識を正当化することはできない。つまり,そのような感覚は,理由の論理空間(logicalspaceofreason)に位置づけられない。感覚を理由の論理空間の中に位置づけるためには,〈感覚はある種の認知的な経験であること〉を認めるしかない。しかし,そのことは,感覚がもはや感覚与件という個物に関係しないことを含意する。論理実証主義者が言う基礎づけ主義は,感覚与件に関するこの深刻なジレンマを無視したところで構築された,一種の神話にすぎない。(44ページ)
・・・こういう考え方になってしまうのは、以下のような思考によるものであると考えられる。
(1)経験を論理で説明しようとしてしまう誤謬 (2)因果関係をアプリオリと考える誤謬、”理由”を最終的根拠に求めてしまう誤謬 (3)経験による判断が間違ってしまう可能性、錯覚してしまう可能性があるという判断が、そもそも経験則(経験の因果関係による結びつき、そしてそれらの積み重ね)によるものであることを見逃している。それらのプロセスそのものも結局経験として説明するしかないのである。
もっとも、
最終的には,それ自体で不可謬な感覚そのものにまで遡行する。(44ページ)
・・・という見解は理解できなくもない。言葉と経験とのつながり、経験と経験との同一性(同様に差異も)は究極的には論理で説明できない場所に行き着く。(このあたりの話は、拙著、哲学的時間論における二つの誤謬、および「自己出産モデル」 の意義でも扱っている) また思考に情動的なものが入り込んでいることも事実である。
ただ、言葉と経験とが結びついた、その事実は明証性を有する。そこに見えているものを「リンゴだ」と思ったことは事実なのである。その上で、
・どのようなときそれが錯覚ではないと判断されるのか ・どのようなとき科学的客観性がもたらされるのか
ということを具体的経験として説明することは可能なのである。目の前のものをリンゴだと思ったことは事実であるが、よくよく見ると別の素材でできた偽のリンゴだった、ということはありうる。その錯覚を認めるプロセスを経験的事実として説明することは実際可能なのである。
分析哲学者たちは、こういった具体的な真理検証プロセス、科学の世界において当たり前に考えられているであろう、こういった具体的経験プロセスを全く無視し、経験そのものが論理的に証明されなければ「真」にならないかのような錯誤に陥っているのではないのか。
護山氏は上記の説明に対し、論文の目的として、
本稿の課題はむしろ,経験論の一類型としてのダルマキールティの知覚論が〈所与の神話〉の射程に入るか否か,また,彼の議論が〈所与の神話〉から抜け出る方策になにがしかの貢献をなしうるかどうか,を検討することにある。(44ページ) ・・・としている。これからじっくり読んでみるが、ぱっと見たところ、護山氏の議論は因果関係をエポケーできていないものになっている印象である。
因果関係をエポケーできない経験論は、上記「所与の神話」の問題点を洗い出すことができるとは思えないのだが・・・まだ最後まで読んでいないので、最終的判断は保留しておくべきか。
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荒畑靖宏著「経験と世界への開け ――マクダウェルの「最小限の経験主義」のための 存在論的前提――」『成城文藝』(205)、2008年、114〜92ページ
・・・も少し読んでみたのだが、マクダウェルの見解はいったいどこの世界の話なのだろう? と感じざるをえない。
世界や実在それ自体が源泉である知識や信念が、あるいは「経験的」世界に応ずべき思考――「経験的」思考――の存在が否定されるべきでないのなら、経験的世界への通路である「経験」とは、まさにその裁定の場であるのでなければならない。ゆえに必要とされているのは、「経験が法廷となって、われわれの思考が物事のあり方に責任を負う――われわれの思考が思考としてそもそも理解できるのであれば、そうでなければならない――のを媒介しなければならない」という考えである。すると経験は、規範的な本性をもつ状態ないし出来事でなければならないことになる。(25〜26ページ)
・・・このあたりの論理の道筋がよくわからないのであるが・・・事実認識の正しさと価値観の問題とが混同されてしまっているのではなかろうか?
これをマクダウェルは、経験は「理由の論理空間(the logical space of reasons)」に属する、と表現する。(26ページ)
経験を理由の論理空間に属するものと考えることはできないという確信である。「経験」ということで考えられている世界と人間との直接的接触の場は、両者の因果的作用の場――自然上の出来事――のことであり、したがって経験は、むしろ理由の論理空間とは対置される論理空間に、すなわち典型的には自然科学によってもたらされる 理解可能性(因果的法則性)が支配する「自然の論理空間」ないし「法則の領界」に属する。したがって経験とは、それに対してわれわれが規範的な関係をもてるようなものではありえないことになる。(26ページ) ・・・いったいどうやったらこんな話になるのか? 因果的法則性が経験の前提となってしまっている。この断定の根拠はいったいどこにあるのだろうか?
まったくもってマクダウェルの独断的空想世界の話のようだ。
経験に基づいて、いかなる場合に私たちは価値観という言葉を用いるのか、なにをもって「理由」としているのか、なせそういう話にならないのだろうか?
おそらく、マグダウェルの試み、「シーソーから降りる」(26ページ)とは、自発的な意志・信念を持つ精神と、因果法則を受動的に受け入れざるをえない自然、という二分法をエポケーできないまま、その二つを疑似論理的・仮想論理的につじつまを合わせようとすることではないかと考えられる。
マクダウェルにとって「経験」とは、そのうちで概念能力が受動的に引き出されて働いているようなエピソードないし状態のことである。(27ページ)
・・・この経験の定義がいったい何によって根拠づけられるのか、そのあたりがまったく謎のままなのである。
(2018.6.27[水])
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