2018年07月の日記


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(純粋)経験論と(分析哲学における)経験主義とは、全く別物らしい


入江幸男著「内在的基礎づけ主義とドイツ観念論」『ヘーゲル研究』16号、2010年、pp. 70-81

・・・を読んだ。分析に使われている用語そのものから検証しなおす必要があるのでは、と改めて感じた。


1.内在主義・外在主義という区分の問題点



(1)「心」や「意識」というものが前提されてしまっている。経験はただ現れるもの、それは「眼で見られている」ものではない。「心」という具体的経験はいったいどこにあるのか? 「意識」という具体的経験はいったいどこにあるのか? それらの検証なしに、ただただ「心」やら「意識」というものが前提されてしまっている。

(2)経験が「内的」なものか「外的」なものかの区分は絶対的なものではない

外界に存在する物が、その物の認識の原因であると考えているはずである。そうだとすると、物についての信念を正当化するのは、最終的には外界の物そのもの、あるいはその物と信念との因果関係であるということになるだろう。(入江氏、71〜72ページ)


・・・というような、知覚の因果説(三谷氏、5〜6ページでも触れられている)は、因果関係適用の方向性を間違えている。

物の存在⇒知覚、ではない。たとえば、ジェイムズの議論(「意識」は存在するのか)においては、

まずは経験⇒それが外的なものなのか、内的なものなのかという判断

・・・となっている。この違いは明確にしておくべきであろう。またジェイムズは内的なものと外的なものとの区別が絶対的でないことも述べている。

ジェイムズは内的・外的の区別の判断の根拠を「文脈」としているが、結局のところ、それらは経験の因果関連付けによりもたらされるものであると、拙著(純粋経験には「意識」も「思考」も「作用」も「証人」もない)で説明している。

同様に、

バンジョー自身は、観念論を否定し、実在論を主張しているのだが、その証明は、外界の想定なしに基礎付けられた知識から出発して、外界における物の実在を証明することによってのみ可能になる。(入江氏、72ページ)



・・・という見解も的外れである。私たちは経験の何をもって「外界」と呼んでいるのか、ただそれを具体的経験のとおりに説明すれば良いだけであって、「外界の認識の論証」(入江氏、72ページ)なのではない。

入江氏が採り上げられているバンジョーやフィヒテの理論は、内・外の区分が既に前提されてしまっているのである。それゆえに、内から外を「論証」する必要があるとか、外から内への因果性が前提される必要があるとか、そういう話になってしまうのだ。

認知プロセス」(入江氏、72ページ)も、結局は経験を因果的につなげることで導き出された理論、あるいは経験則から導き出された因果推論である。

おそらくバンジョーは因果関係をアプリオリと見なしているから(「全ての出来事は原因をもつ」:入江氏、76ページ)このあたりの判断が不可能になってしまっているのではなかろうか。

(3)経験どうしを関連づけるという具体的経験の事実が全く無視されている

このことは既に何度も(たとえばこちらで)説明しているが、入江氏がここで「外在的であるような要因」(入江氏、71ページ)というものも、結局のところ経験から導き出された「経験則」なのである。

分析哲学における経験主義が扱う「経験」とは、具体的に経験されている事実というよりも、想定された特定のシチュエーションにおける知覚体験、さらには想像的分析により抽出された理念的(想定)経験というべきもののように思える。

また因果関係に関する誤解も影響している。先に述べたが、バンジョーは因果関係をアプリオリと見なしてしまっている。また、

 彼は、内在的基礎付け主義者として、直接的経験に訴えることで正当化される基礎的信念があると主張するが、これから過去や未来についての信念、現在の観察できない側面についての信念へ推論できるかどうかが、問題であり、もしできないなら、我々は、懐疑論や独我論になるという。もし出来るとするなら、それは、直接的経験から推論できるということであり、その推論が、アプリオリに正当化されねばならない、と言う。(入江氏、76ページ)


・・・経験則はアプリオリではない。経験則があればいくらでも因果推論できる。ただ、現時点においてそのものを「リンゴだ」と言語表現した、その事実はそれだけのことであって、その事実のみから経験則が導かれるわけではない。その際の知覚経験がそういった推論の”素”のようなものを含んでいるわけではないし、「構成的気付き」(入江氏、74ページ)を伴っているわけでもない。



2.そもそも「真理」とは何なのか



何か見えている(厳密に言えば、経験が現れている)ことは、ただそれだけの事実であって、それは「正しい」とか「間違い」とか判断するようなことではない。

その見えているものを「リンゴだ」と言語判断、言語表現したとき、初めてそれが「正しい」のか「間違い」なのか、という判断が可能になる。

つまり、「真理」とは言語表現の正誤判断のこと、言語表現とそれに対応する具体的経験との繋がりの「正しさ」のことなのである。

 バンジョーは、信念についてと同様な仕方で、感覚内容についても構成的な気付きがあるという、そしてそれは不可謬であるという。「感覚内容を構成する気づきは、正当化を必要とせず、それに関する誤りが存在しないという意味で、不可謬である。」(入江氏、74ページ、「」内はバンジョーからの引用)


・・・そもそもが「構成的な気付き」とはいったい何なのか? 具体的に示せないような理念的な言葉を持ち出されても何の論証にもなっていないのである。

感覚内容は感覚内容、ただそれだけであって、それが「可謬」であるとか「不可謬」であるとか判断するのはナンセンスなのである。明証性と真理判断とを混同してしまっている。

具体的には何か見えて「リンゴだ」と言語表現したこと、それだけなのである。そして「リンゴだ」という判断は疑うことができる。そのことについてもこちらで説明している。

絶対的な真理というものなど見出すことはできない。そのものが見えて「リンゴだ」と思ったのであれば、それが「真理」なのである。その真理は、さらにそのものを観察して実際には精巧にできたプラスチックの模造品だったと判断された場合、覆され、それが「プラスチックの模造品」であるという事実が真理として取って代わる。

このように、観察やら実験を繰り返したりすることでその言語判断が正しいのか間違いなのかを検証するのである。さらに、自分のみでなく、他者による判断も同様なものであるのか確かめることで、真理の客観性というものが導き出される。

付け加えれば、

アプリオリな知識は、経験によって訂正されるのではない。なぜなら、経験命題が直接にアプリオリな知識に矛盾することはないからである、(入江氏、77ページ)


・・・というのも誤解である。これは経験上常に正しいということをアプリオリと取り違えているだけなのである。(このことについては、こちらで具体的に説明している。)



3.表象とは? 知的直観とは? 感性的直観とは? 概念とは?



フィヒテは、表象は、知的直観と感性的直観と概念の三つが結合して初めて可能になる、と言う。(入江氏、75ページ)



・・・果たして「直観」とは何なのであろうか? 同様に、「表象」とは?「知的直観」「感性的直観」とは何なのであろうか? 「概念」とは何なのであろうか?

結局のところ、何か見えてそれを「リンゴだ」と思った事実、それだけではないのか? あるいは何か見えて「リンゴだ」と思った際に何らかの情動的感覚を覚えることはあるかもしれない。

「直観」という言葉が惑わせるのだ。直観に「知的直観」「感性的直観」という区分などあるのか? とある経験を「リンゴだ」と思ったり、ある食事をしていて塩辛いと思った、そしてそれに「塩が入っているからだ」と因果推論した、そういった経験をもって「直観」と呼んでいるのではないのか?

感覚内容はただの感覚内容、それは「直観」ではない。

感覚内容を言語表現した事実はあるが、その事実に対し「概念」「表象」というものはいったいどこに現れているのか?

様々な用語が用いられているが、それがいちいち具体的事実に即していないのだ。
2018.7.22[日]
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「経験的」思考ではなく、思考のプロセスが経験である/経験が概念的なのではなく、言葉も経験であるということ


荒畑靖宏著「経験と世界への開け ――マクダウェルの「最小限の経験主義」のための 存在論的前提――」『成城文藝』(205)、2008年、114〜92ページ(25〜47ページ)(※ pdfファイルのページのつけ方が二通りになっているので両方示しておきます)

・・・を最初しか読んでいなかったので、一応最後まで読んでみた。なんというか・・・とにかく全く違う”世界”の話のようで、途方に暮れる気分だ。

指摘したいところがたくさんある。ちょっとづつ具体的に進めてみたい。

私としては、議論の前提となっている様々な用語、そのものから吟味・検証していく必要があるのではないかと感じる。様々なものが、何の根拠もなしに前提されている。現代における哲学的常識のようなものか・・・疑うべきものはそれらであるように思える。

「経験的」思考”(114(25)ページ)、とはいったい何なのか? 思考とは、具体的経験として現れるプロセスを表わす言葉ではないのか? (経験として現れないものを思考と呼ぶこともあろうが、それらは因果関係をたどって推論される作用のことである)

「経験」とは何なのか? 単なる知覚のことなのか?

「理由」とは何なのか? そもそもが「理由」というものが「因果関係」に関する用語である。「理由の論理空間」と「自然の論理空間」(113(26)ページ)という区分の根拠は何なのか?

「典型的には自然科学によってもたらされる理解可能性(因果的法則性)が支配する「自然の論理空間」ないし「法則の領界」(113(26)ページ)



・・・とあるが、因果、因果関係とはいったい何なのか? 「因果的作用」(113(26)ページ)の正しさはいったい何によってもたらされるのか、結局は、

それに照らしてわれわれの思考や信念や判断が正しかったり誤ったりしうるもの(113(26)ページ)



・・・によってその正しさが認められるのではないのか? つまりまずは経験ありき、そこからマクダウェルの言う「理由の論理空間」と「自然の論理空間」というものが想定されうるのではないのか?

「存在」や「信念」とは何なのか? ヒュームは下のように述べている。

存在の観念は、存在しているとわれわれが思いいだくものの観念とまさしく同じものである。なにかをただ反省するのと、それを存在するものとして反省するのとは少しも違わないのである。存在の観念は、なにかある対象の観念と結びつけられても、この観念になにも付け加えはしない。(ヒューム著『人性論』土岐邦夫・小西嘉四郎訳、中央公論社、37ページ)


・・・つまり、「存在」そのものの経験などどこにもない。私たちの経験としては、(ヒュームの理論とは少し違うが)実際に見えたり聞こえたり感じたりしているもの、具体的経験と、それを表現する言葉、つまり経験と(これも経験として現れる)言葉、それだけではないのか?

同様に「信念そのもの」の経験などどこにもない。経験と言葉を関連づけた経験のみがそこにある。そこに「信念」という”何者か”が関与した具体的事実などどこにもないのである。

これらは皆、「抽象概念の罠」「概念の実体化の錯誤」によるものなのである。具体的経験を離れ、言葉そのものだけを疑似論理的につなげて考える、概念図としては表わせるが、具体的経験としては全く根拠づけられていない、そういう理論・論理になってしまうのである。

 
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経験が概念的でありながらも自然的でありうるのは、やはり、経験することが世界内存在の一様態としてしか可能ではないからなのである(96(43)ページ)


・・・「経験が概念的」である、というのはおかしな表現である。「経験的思考」という用語の問題点と関連する。「経験が概念的」なのではない。言葉を用いた(しゃべった、思った、書いた、聞いた、読んだ)それらも明白な(明証性を有する)具体的経験であることにはかわりない、ということなのである。

明証性を有する具体的経験とは、具体的経験内容(概念的とかは全く関係ない)と言葉、そこに見えているもの(厳密にはただ現れているもの)を「リンゴ」と呼んだ、その事実だけなのである。

その見えているものを「リンゴだ」と思ったのなら、その時はそれが「真理」なのである。それが、もう一度よく見たら精巧にできたプラスチックの模造品だった、とか、他の人からそれは「偽物だよ」と教えてもらったとか、そういう具体的経験の積み重ねにより、それが「間違い」だったと気づく、そういう具体的経験プロセスとして説明可能なのである。

ハンマーは、ただそれを呆然と眺めているだけの者には、決して「ハンマーとして」現れてはこない。ハンマーが本来のハンマーとして現れるのは、それでもって何かを打っている者、打つことによって何かを壊したり作ろうと意図している者、その行為によって何かを達成しようと意図している者にとってでしかない。(96(43)ページ)


・・・これはどう考えてもおかしい。それをハンマーだと教わっていれば、別にそれを使おうと思わなくてもハンマーだと分かる。意図と認識とは別物である。(さらに厳密に言えば、意図とは一連の具体的経験の”独断的解釈”であって、意図そのものの経験などどこにもない)

上記の説明から判断するに、ハイデガーは、

・言語の発生
・言語の意味理解

・・・とを混同しているのではないか? ハイデガーは、具体的な言語習得プロセスを全く無視している。そして言語がいかに発生したのかどうかは、文献やらの具体的情報が残っていなければ想像・推測するしかない、実際のところどうだったのか分かりようのないものである。

無言で道具を使用することすらも、それが現存在のふるまいである以上は、何かを何かとして 理解することだからである。(97(42)ページ)



・・・これも違う。そうではない。無言で道具を使用した事実(経験)がまずあり、「理解」というものが伴っていたのだ、という判断は、事後的分析による”解釈”にすぎないのである。幼児の事例にしてもそうである。では虫が花を見分けて蜜を吸っているのはどう説明するのか? いずれにせよ、そういった「理解」云々は、経験の事後的解釈であり、ただ私たちは具体的に経験した、ただそれだけなのである。(※ このあたりの話は、拙著「『現象学入門』検証」http://miya.aki.gs/miya/genshogaku.pdf の9〜10ページで少しだけ触れています。)

そもそもが「理解する」とはいったいどういうことなのか? そのあたりの考察・検証が全くないままに、それがいったい何なのか明確になっていないままに、「理解することだからである」と断定することはできるのか?

「命題的な構造」「全体論的な脈略」(97(42)ページ)についても同様である。それらが具体的経験に影響しているのかどうか判断すること、それこそ「因果関係」構築プロセスに外ならない。しかも本当にそれが個別の判断に寄与しているのか、そう判断できる根拠はいったいどこにあるのだろうか?



まだまだ指摘したいところがたくさんあるのだが、今日はここまで・・・
2018.7.8[日]
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言葉のトリックと恣意的な因果関係構築


川瀬和也著「ヘーゲルにおける概念の客観性と「所与の神話」」『東京大学大学院人文社会系研究科・文学部哲学研究室論集』31、2013年、141〜154ページ

・・・を読んだ。川瀬氏の説明は非常に分かりやすい。論点を的確にまとめるのがとても上手い方のように思える。それゆえに、マクダウェルやヘーゲルの見解における問題点も分かりやすくなっている。

あちこちに、言葉のトリックや恣意的な因果関係構築が見られる。このトリックをしっかり見破ることが重要であるように思われる。

「感性的な対象」が「思考された対象」へと”作り変えられる”(川瀬氏、146ページ)、という根拠はどこにあるのだろうか? それが「変化する」と言い切る根拠はどこにあるのだろうか?

これは一種の”論点のすり替え”なのだ。これに気づいている哲学者はおそらくいないであろうが。

ある言葉を知ることで、特定の経験が現れるたびに、その言葉とセットとして連想してしまうようになる。つまり経験が言葉といやおうなしに繋がってしまう、ここが明らかに変化した部分なのであって、言葉が指し示している経験そのものが実際に変化しているのかどうか、「作り変えられる」のであるか、常にそうであるか断言できるであろうか? ・・・それも結局は、経験が言葉で言い表される前と後での比較により検証される具体的事実ということになるのではなかろうか。

実感的な印象としても変化することがあるかもしれないし、しないことがあるかもしれないようにも思える。双方様々な具体的事例として説明できるように思えるし、常にそうであるのか断定することがいったいできるのかどうかさえ疑問である。ヘーゲルがいくら理念的に説明したところで、結局は具体的に変化しているかしていないか、という話なのである。さらに言えば、ある言葉を知っていなかった頃の記憶がなかった場合(こういう事例は多いと思う)、かつての経験がどのようだったか思い起こせないのであるから、その言葉(概念?)を知ってから経験内容がどのように変化したか検証しようもない。

そもそもが「感性的な対象」「思考された対象」という言語表現に問題があるのだ。具体的経験がいかなるものかを無視し、「思考された対象」と漠然と捉えることで、あたかも新たな何かが”作り出された”かのような錯覚を与えてしまっているのだ。哲学という学問は、こういった”言葉のトリック”がまかり通っているのである。「思考」とはいったい何なのか? 具体的に示すこともないまま「感性的」と勝手に対置されてしまっている。いったいこの根拠は何なのであろうか?

また、ヘーゲルの言う概念的ネットワークについて、”概念”というものがアプリオリに”自己自身のうちに持っている”(川瀬氏、149ページ。ヘーゲルからの引用。)と言えるのか・・・それを判断するのも結局のところ経験に根拠づけられているのではないか。

「これは白い」という判断のためには、例えば赤や黒、青といった他の色の概念や、さらに上位の色そのものの概念との関係も把握されていなければならないし、白い紙や白い皿、白い猫、あるいは白くない、黒い犬といった、様々な個物との関係も把握されていなければならないだろう。なぜなら、「これは白い」という判断しているときには、同時に、「これは黒くはない」ということや、「これは色をもっている」ということ、また、「これはあの白い紙と同じ色を持ち、あの黒猫とは異なる色を持つ」といったことも、通常は判断できているはずだからである。(川瀬氏、150〜151ページ)


・・・こういった”概念の”ネットワークというものはいかにして成立しているであろうか?

「黒い」という言葉を知っているから、目の前のものを「白い」と呼べるのだ、と言い切ることはできるのであろうか?

見えたものを「白い」と呼んだ人がいて、その人に、黒いものを見せてこれは何色、と尋ねたとする。おそらくその人は「黒い」あるいは「黒」と答えるであろう。その状況を観察した人は、「白い」と答えられる人は「黒い」とも答えられる、という一つの結論を見出すかもしれない。その事象が多くの人たちの間で認められれば、「白い」と呼べることと「黒い」と呼べることとの因果関係に必然性を見出す、と思うかもしれない。

ただ、因果関係は絶対的真理ではない。それが本当かもしれないし、そうでないかもしれない。ただ因果関係を認めた事実があるだけなのである。

さらに言えば、上記の因果関係に対し、違和感をおぼえてしまうのは私だけであろうか? 「黒い」と呼べることが「白い」と呼べる”原因・要因”であるという結論は、どう考えてもおかしい。

そして、結局のところ私たちは家族やら学校の先生やらから「黒い」「白い」という言葉を習っているのである。絵の具やクレヨン、色鉛筆などを渡され、具体的に言葉と経験との関係を何度も示され、学ぶことで「黒」や「白」とそれぞれの具体的経験(知覚的経験)との関係を知っているのである。因果関係的に考えるのであれば、こういう具体的出来事としてその理由を示す必要があると思うのだ。

もちろん「黒」や「白」という言葉の起源など、具体的資料が残っていない限り、私たちにはわからない。いくら想像したって想像以上のものにはならない。

直観こそ客観的なものであり、概念は主観的なものにすぎない、という見方を導くことになる。そして、時節で見るとおり、ヘーゲルはこれに真っ向から対立する見解を提示する。(川瀬氏、146ページ)


・・・直観や概念というものを、客観・主観という枠組みで考えることに反対する、ということにおいては同意する。しかし、「所与の神話」の解決策としてヘーゲルの見解はやはり同意はできない。


また、マクダウェルの思考回路にも全く同意できない。「経験的な思考における我々の自由」(川瀬氏、143ページ)とはいったい何なのか?

目の前のものを「リンゴ」とは思えても「バナナ」とは思えない。これが言葉と経験との関係である(同様に判断がつきかねてしまうというのも具体的経験である)。このどこに「自由」があるだろうか?

そもそもが、

もし経験的な思考における我々の自由が、その総体におよぶものであるのだとすると、とりわけ、その自由が概念の領域の外側からの制約を受けないのだとすると、このことは、経験における判断が、それらの判断と、思想にとって外在的な実在との関係の仕方に基づてなされるという、このことの可能性そのものを脅かすように思われる。(川瀬氏、143ページ。マクダウェルからの引用)


・・・経験を言語表現するときに「領域の外側からの制約」を受けるのか受けないのか、というのは、経験を言語表現した後で事後的に分析する、因果関係構築であるにすぎないのだ。

結局のところ、因果関係をアプリオリとしてしまっていることから生じる誤謬なのである。

現実としての経験が成立するためには、なにがしかの「原因」あるいは「作用」というものがなければならない、という思い込みである。

そうではない。まずは言葉と経験とがつながったという具体的事実があり、それが何によって成立しているのかは、事後的な因果関係構築、経験と経験との関連づけにより見出していくことなのである。


・・・今日はとりあえずここまで。機会があればもう少し厳密に論じてみたい。

 
(2018.7.2[月])

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