入江幸男著「内在的基礎づけ主義とドイツ観念論」『ヘーゲル研究』16号、2010年、pp. 70-81
・・・を読んだ。分析に使われている用語そのものから検証しなおす必要があるのでは、と改めて感じた。
1.内在主義・外在主義という区分の問題点
(1)「心」や「意識」というものが前提されてしまっている。経験はただ現れるもの、それは「眼で見られている」ものではない。「心」という具体的経験はいったいどこにあるのか? 「意識」という具体的経験はいったいどこにあるのか? それらの検証なしに、ただただ「心」やら「意識」というものが前提されてしまっている。
(2)経験が「内的」なものか「外的」なものかの区分は絶対的なものではない
外界に存在する物が、その物の認識の原因であると考えているはずである。そうだとすると、物についての信念を正当化するのは、最終的には外界の物そのもの、あるいはその物と信念との因果関係であるということになるだろう。(入江氏、71〜72ページ) ・・・というような、知覚の因果説(三谷氏、5〜6ページでも触れられている)は、因果関係適用の方向性を間違えている。
物の存在⇒知覚、ではない。たとえば、ジェイムズの議論(「意識」は存在するのか)においては、
まずは経験⇒それが外的なものなのか、内的なものなのかという判断
・・・となっている。この違いは明確にしておくべきであろう。またジェイムズは内的なものと外的なものとの区別が絶対的でないことも述べている。
ジェイムズは内的・外的の区別の判断の根拠を「文脈」としているが、結局のところ、それらは経験の因果関連付けによりもたらされるものであると、拙著(純粋経験には「意識」も「思考」も「作用」も「証人」もない)で説明している。
同様に、
バンジョー自身は、観念論を否定し、実在論を主張しているのだが、その証明は、外界の想定なしに基礎付けられた知識から出発して、外界における物の実在を証明することによってのみ可能になる。(入江氏、72ページ)
・・・という見解も的外れである。私たちは経験の何をもって「外界」と呼んでいるのか、ただそれを具体的経験のとおりに説明すれば良いだけであって、「外界の認識の論証」(入江氏、72ページ)なのではない。
入江氏が採り上げられているバンジョーやフィヒテの理論は、内・外の区分が既に前提されてしまっているのである。それゆえに、内から外を「論証」する必要があるとか、外から内への因果性が前提される必要があるとか、そういう話になってしまうのだ。
「認知プロセス」(入江氏、72ページ)も、結局は経験を因果的につなげることで導き出された理論、あるいは経験則から導き出された因果推論である。
おそらくバンジョーは因果関係をアプリオリと見なしているから(「全ての出来事は原因をもつ」:入江氏、76ページ)このあたりの判断が不可能になってしまっているのではなかろうか。
(3)経験どうしを関連づけるという具体的経験の事実が全く無視されている
このことは既に何度も(たとえばこちらで)説明しているが、入江氏がここで「外在的であるような要因」(入江氏、71ページ)というものも、結局のところ経験から導き出された「経験則」なのである。
分析哲学における経験主義が扱う「経験」とは、具体的に経験されている事実というよりも、想定された特定のシチュエーションにおける知覚体験、さらには想像的分析により抽出された理念的(想定)経験というべきもののように思える。
また因果関係に関する誤解も影響している。先に述べたが、バンジョーは因果関係をアプリオリと見なしてしまっている。また、
彼は、内在的基礎付け主義者として、直接的経験に訴えることで正当化される基礎的信念があると主張するが、これから過去や未来についての信念、現在の観察できない側面についての信念へ推論できるかどうかが、問題であり、もしできないなら、我々は、懐疑論や独我論になるという。もし出来るとするなら、それは、直接的経験から推論できるということであり、その推論が、アプリオリに正当化されねばならない、と言う。(入江氏、76ページ) ・・・経験則はアプリオリではない。経験則があればいくらでも因果推論できる。ただ、現時点においてそのものを「リンゴだ」と言語表現した、その事実はそれだけのことであって、その事実のみから経験則が導かれるわけではない。その際の知覚経験がそういった推論の”素”のようなものを含んでいるわけではないし、「構成的気付き」(入江氏、74ページ)を伴っているわけでもない。
2.そもそも「真理」とは何なのか
何か見えている(厳密に言えば、経験が現れている)ことは、ただそれだけの事実であって、それは「正しい」とか「間違い」とか判断するようなことではない。
その見えているものを「リンゴだ」と言語判断、言語表現したとき、初めてそれが「正しい」のか「間違い」なのか、という判断が可能になる。
つまり、「真理」とは言語表現の正誤判断のこと、言語表現とそれに対応する具体的経験との繋がりの「正しさ」のことなのである。
バンジョーは、信念についてと同様な仕方で、感覚内容についても構成的な気付きがあるという、そしてそれは不可謬であるという。「感覚内容を構成する気づきは、正当化を必要とせず、それに関する誤りが存在しないという意味で、不可謬である。」(入江氏、74ページ、「」内はバンジョーからの引用) ・・・そもそもが「構成的な気付き」とはいったい何なのか? 具体的に示せないような理念的な言葉を持ち出されても何の論証にもなっていないのである。
感覚内容は感覚内容、ただそれだけであって、それが「可謬」であるとか「不可謬」であるとか判断するのはナンセンスなのである。明証性と真理判断とを混同してしまっている。
具体的には何か見えて「リンゴだ」と言語表現したこと、それだけなのである。そして「リンゴだ」という判断は疑うことができる。そのことについてもこちらで説明している。
絶対的な真理というものなど見出すことはできない。そのものが見えて「リンゴだ」と思ったのであれば、それが「真理」なのである。その真理は、さらにそのものを観察して実際には精巧にできたプラスチックの模造品だったと判断された場合、覆され、それが「プラスチックの模造品」であるという事実が真理として取って代わる。
このように、観察やら実験を繰り返したりすることでその言語判断が正しいのか間違いなのかを検証するのである。さらに、自分のみでなく、他者による判断も同様なものであるのか確かめることで、真理の客観性というものが導き出される。
付け加えれば、
アプリオリな知識は、経験によって訂正されるのではない。なぜなら、経験命題が直接にアプリオリな知識に矛盾することはないからである、(入江氏、77ページ) ・・・というのも誤解である。これは経験上常に正しいということをアプリオリと取り違えているだけなのである。(このことについては、こちらで具体的に説明している。)
3.表象とは? 知的直観とは? 感性的直観とは? 概念とは?
フィヒテは、表象は、知的直観と感性的直観と概念の三つが結合して初めて可能になる、と言う。(入江氏、75ページ)
・・・果たして「直観」とは何なのであろうか? 同様に、「表象」とは?「知的直観」「感性的直観」とは何なのであろうか? 「概念」とは何なのであろうか?
結局のところ、何か見えてそれを「リンゴだ」と思った事実、それだけではないのか? あるいは何か見えて「リンゴだ」と思った際に何らかの情動的感覚を覚えることはあるかもしれない。
「直観」という言葉が惑わせるのだ。直観に「知的直観」「感性的直観」という区分などあるのか? とある経験を「リンゴだ」と思ったり、ある食事をしていて塩辛いと思った、そしてそれに「塩が入っているからだ」と因果推論した、そういった経験をもって「直観」と呼んでいるのではないのか?
感覚内容はただの感覚内容、それは「直観」ではない。
感覚内容を言語表現した事実はあるが、その事実に対し「概念」「表象」というものはいったいどこに現れているのか?
様々な用語が用いられているが、それがいちいち具体的事実に即していないのだ。
(2018.7.22[日])
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