2018年09月の日記


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問題は経験の「現象的性格」ではなく、錯覚・幻覚であるといかにして気づくのか、ということ


小草泰著「知覚の志向説と選言説」『科学哲学』42(1)、2009年、29〜49ページ

・・・を三分の一ほど読んだ。現時点で感じたことを述べておく。


1.問題は経験の「現象的性格」ではなく、錯覚・幻覚であるといかにして気づくのか、ということ



幻覚と知覚の現象的性格を志向的内容という共通の要素によって説明しようとしている(小草氏、32ページ)


・・・既にこちらで説明したが、「幻覚」と「正しい知覚」というものが既に識別されていて、それを比較し説明しようとしているのである(この場合は共通性を見出そうというのではあるが)。

幻覚や錯覚と正しい知覚との知覚経験の比較をしても何にもならない。論点がずれているのだ。

むろん,両見解とも,知覚の場合と幻覚の場合に,主体当人の観点から識別不可能な経験が生起しうることは認める.しかし,志向説がこの事態を,二つの経験が(共通の志向的内容を持つゆえに)同一の現象的性格を持つという事態として理解するのに対して,選言説は,二つの経験の現象的性格は主体に識別できないだけであって,知覚の現象的性格が実在の対象とそれが現に例化する性質そのものの現前であるのに対して,幻覚の現象的性格はそうでないというまさにその点で同一ではない,と主張するのである.(小草氏、34ページ)


・・・いずれにせよ、その時点においては”識別できない”のである。その時点においては錯覚かどうか判断できないのである。当然その時点において錯覚とそうでない知覚の分析などできようはずはない。

仮に事後的に説明できたとしても、その時点において識別できないのだったら、それらの”現象的性格”を比較することに何の意味があるのか? そもそもがその時点においてそれが「正しい」と思っていたのだから。

そうではなく、問題は、どのようにして錯覚と気付くか、ということではないのか?

(本ウェブサイトで何度も述べていることであるが)錯覚と気付いていないのであれば、その認識は正しいと思われていて、それが錯覚だと気付いたのであれば、「正しくなかった」と分かる、それだけのことなのだ。

言い換えれば、錯覚だと認められていない・気付いていないのであれば、その感覚は”対象そのもの”なのである。それが錯覚だと気づけば、そうでなかったと分かる、ただそれだけのことなのだ。


2.結局、経験が対象そのもの



こちらで述べたことだが、もう一度説明しておく。

ヒュームは次のように述べている。

存在の観念は、存在しているとわれわれが思いいだくものの観念とまさしく同じものである。なにかをただ反省するのと、それを存在するものとして反省するのとは少しも違わないのである。存在の観念は、なにかある対象の観念と結びつけられても、この観念になにも付け加えはしない。(ヒューム『人性論』土岐邦夫・小西嘉四郎訳、中央公論社、37ページ)


・・・これは、言い換えれば「存在」という「観念=心像」(実際ヒュームも『人性論』の最初でそう定義している)などどこにもない、ということなのである(ヒューム自身はこのあたり無自覚ではあるが)。

「リンゴ」を心に思い浮かべる場合も、「存在しているリンゴ」を思い抱く場合も、結局は「リンゴ」という言葉が指し示すイメージを思い描いていることに変わりはないのである。

そして、これはヒュームの言う「印象」においても同じことなのだ。そこに見えているのは「リンゴ」であり、そこに見えているものは「存在している、実在しているリンゴ」なのである。「存在」「実在」という言葉を加えたとしても、私たちの「知覚」に何も加えはしないのだ。

しかしそれは「実在を含意しない」ということでは決してないのである。

「対象の実在を含意しない」というのが志向性の一般的な特徴であるとされており,それゆえ, 知覚経験を志向性の概念を用いて説明することは,それらの経験には必ず実在の対象がなければならないという描像を退けるのである.これによって,「幻覚の場合にも私に与えられている何物かの実在を認めなければならない」と考える必要はなくなる.(小草氏、31ページ)


志向説が「現実に対象が存在する場合にも,知覚経験の現象的性格は当の対象(との関係)を本質的な構成要素として持つわけではない」と主張することを意味する.(小草氏、32ページ)


・・・結局のところ、経験=対象だからである。つまり経験として現れる=実在しているということ、具体的経験として触れる、見ることができる、そういう場合「実在している」と呼んでいるのである。(もちろんそれが錯覚であると事後的に分かれば、間違っていたということにはなるが)

「表象」という言葉が惑わせるのだ。対象そのものである経験を「表象」と読み替えて、あたかも実在とは別のものが生じているように見せかけている。具体的経験としては、単にそこに見えているものと「リンゴ」という言葉が繋がった、それを「リンゴ」を読んだ、ただそれだけのことなのである。

経験は,主体の周囲の環境があるあり方をしているという志向的内容を持つ心的エピソード(小草氏、31ページ)


・・・そもそもが「経験」が志向的内容を持っていると判断できるものなのだろうか? そうではない。「志向的内容」とは、具体的経験を積み重ね、それらを因果的に繋ぎ合わせた上で導かれるパースペクティブのことなのだ。ある視覚経験と「リンゴ」という言葉が繋がった、テレビで赤い「リンゴ」を見た、図鑑で青い「リンゴ」を見た・・・そういった様々な経験を積み重ねた上で、「リンゴ」というものの様々な視点というものが形成されるのである。あるいは同じ対象が別の環境では違って見えるとか、光の当て方を変えると違って見えるとか・・・これも個別の経験を因果的に結びつけた上で構築されるパースペクティブなのである。

志向性⇒経験、なのではない。
経験⇒(因果関係による繋がり)⇒パースペクティブ、なのだ。

(2018.9.10[月])
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そもそも「正しい」とはどういうことなのか


横山幹子著「「錯覚からの議論」と選言説」『図書館情報メディア研究』9(2) 、2012年、1〜14ページ

・・・をざっと読んでみた。

「知覚の哲学」に関する議論において、いつも違和感を感じるのは、

(1)客観的存在としての「対象」そしてそれを見る「私」、「私」の”意識”に現れる感覚という枠組みが既に前提されている。
(2)その上で、唯一の「正解」として存在する対象というものが前提されている。
(3)そして、複数の「正しい」知覚経験と「間違った」(幻覚などの)知覚経験とが集合的に扱われた上で、それらを見分けることができるのかという議論になってしまっている。

・・・具体的経験の検証が全く抜け落ちて、前提された枠組み内における辻褄合わせ的議論に終始してしまっているのだ。上記の事柄が、何の根拠もなしに前提されてしまっているのである。

「真理」とは何なのか? 「正しい」とは何なのか?・・・そのあたりの根本的議論が全く抜け落ちてしまっているのだ。

そもそもが判断した時点において、それが「錯覚」だと気づいていないのであれば、その時点において、その判断が「正しい」と思われている、ただそれだけのことではないのか?

幻覚と幻覚ではない感覚、幻覚ではないにせよ(私自身幻覚という経験はあまり覚えがないので)、空耳とか聞き間違えとか、それらの感覚どうしの違いと言われても・・・違うようにも思えるし、似ているようにも思える。ケースバイケースではないだろうか? そのあたり「違う」とか「同じ」とか断言できるようなものなのだろうか? また一回きりの錯覚に対し「同じ」とか「違う」とか比較する対象を実際に探すことなどできるのであろうか? (そのあたり結局は具体的事例に基づかない想像による比較になってしまうのではなかろうか)

真正な知覚的経験と幻覚的経験を異なる種類のものであると考え,両者に共通な心的状態を要求することなく両者を説明することによって,幻覚の場合に素朴実在論が偽であるからといってその偽を真正な知覚に拡張することはできないと論じることである(横山氏、4ページ)


・・・仮に「違う」「同じ」と判断できるとしても、それは事後的に比較してのことである。繰り返しになるが、「錯覚」「勘違い」と気づいていないのであれば、その判断は「正しい」と思われている。例えば世界中の人たちが気づいていなければ、それが「錯覚」だとどう判断しろと言うのだろう?

ある時点においてはそれが「錯覚」であるとは知らなかったが、事後的に、見えていたものが本物ではなく立体映像であったことを知るとか、他の人に見間違いを指摘してもらったとか、そういった新たな経験によって、新たな事実を知ることによって、過去の知覚が「錯覚」であったと知ることができる。

そういった知識を「経験則」として知っていれば、似たような経験が現れた場合、それも「錯覚」ではないかと疑い、もう一度じっくりそれを見るとか何か別の情報を得ようとするとか、そういうことが可能となる。

事前的(?)にせよ事後的にせよ、「錯覚」「幻覚」であるという判断も経験によって明らかになるのである。ある時点において「正しい」と思われた判断が、新たな経験によって覆され、別の判断が「正しい」と認められる。

新たな「真理」がもたらされるのは、自分自身の経験からかもしれないし、他の人から知らされるのかもしれない。あるいは本やテレビなどで知るのかもしれない。ただ他の人からの情報といっても、結局は、自分自身が聞いた「言葉」や他の人が指し示した具体物(結局それも自らの感覚に還元される)である。本やテレビも自らが読んだり見た写真やら図やら映像やら言語説明である。

Fishは錯覚をタイプ分けしているが(横山氏、5ページ)なぜそんなことができるのだろうか? 既にそういう錯覚があることを「経験則」として知っている、ただそれだけのことである。Fishの分析は全く的外れなのだ。タイプ別の錯覚の性質を詳細に説明することと、錯覚であると気づいていることと気づいていないこと(あるいは錯覚であると知っていることと知らないこと)の区別は全く別の問題なのである。

錯覚時に、その「経験則」を知らなければ、あるいは気づかなければ、錯覚を錯覚として認めることはない。さらに厳密に指摘すれば、その「経験則」でさえ絶対的に「正しい」見解であると言い切れるであろうか?


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小草泰著「知覚の志向説と選言説」『科学哲学』42(1)、2009年、29〜49ページ

・・・からの引用であるが、

幻覚と知覚の現象的性格を志向的内容という共通の要素によって説明しようとしている(小草氏、32ページ)


・・・つまり、「幻覚」と「正しい知覚」というものが既に識別されていて、それを比較し説明しようとしているのである。結局、上記の横山氏の論文で示されているFishのやり方と基本的に何が違うというのであろうか?
2018.9.8[土]
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結局、言葉と(感覚・心像などの)経験との個別的・具体的関係でしかない


村井忠康著「知覚と概念―セラーズ・マクダウェル・「描写」―」『科学哲学』45(2)、2012年、99〜114ページ

・・・の分析の続きです(本論文に関してはこれで終わりです)。


1.概念(能力)=言語(能力)である



彼の心理学的唯名論,すなわち,思考は「言語的」事態であるという立場(村上氏、107ページ)


・・・上記「彼」とはセラーズのことである。「言語能力と概念能力の結びつき」(村上氏、108ページ)なのではない。この論文で扱われている「概念能力」とは要するに「言語能力」のことなのである。

セラーズによれば,言語共同体への参入とともに概念能力の体系をわれわれが獲得する(村上氏、100ページ)


・・・「言語共同体」に参入したらわれわれが獲得するのは「言語能力」ではないのか? なぜ「言語」が何の説明もなしに「概念」に入れ替わるのか? この”すり替え”が問題をややこしくしてしまっているのである。

われわれの知覚経験が,根本的に異なるカテゴリーに属する状態としての感覚と思考からなるという,いわば「ハイブリッドな」経験観は,経験における両者の統合のあり方――を捉えるのにふさわしい枠組みだろうか.(村上氏、100ページ)


・・・”「感覚と思考からなるという,いわば「ハイブリッドな」経験”とはいったいどういうものであろうか? 要するに「思考」も「経験」ということなのである。

では「思考」とは何なのであろうか? 「思考」そのものとして現れる具体的経験はいったいどこにあるだろうか? ・・・結局のところ、そんなもの探してみても見つかりはしないのである。

具体的に経験を追っていけば・・・感覚やその他の経験を言語で表現したり、言語と感覚とを繋げたり、言語から何がしかのイメージを浮かべたり、感覚と感覚とを関連づけたり、(感覚に裏付けられた)言葉どうしの関係を構築したり、そういったことではなかろうか?

つまり言葉と経験との関連づけ、経験と経験との関連づけ、それら一連の経験に対し「思考」という言葉を当てはめているのである。「思考そのもの」の経験はない。しかし言語(経験)や感覚(経験)というものは実際にある。それらを関連づけている経験もある。ただそれだけのことなのだ。

「感覚と思考」の「統合のあり方」を問う前に、既に言葉と(感覚を含めた)経験とは、具体的経験として既に繋がってしまっているのである。「統合のあり方」とは、所詮”後付け”の辻褄合わせ、既に繋がっている事実があって、その繋がりの理屈付けを後付けで探しているだけなのだ。

しかし、言葉(これも経験)と経験(感覚含む)との繋がりとは、究極的に”論理”で説明できないところに行きつく。ただ繋がった事実だけが明らか(明証性を有する)なのである。

「知覚経験が感覚と思考を含む」という言い方がおかしいのだ。知覚と感覚との言葉の使い分けで混乱してしまうだけである。ただそこにあるのは感覚やら心像やらと言葉、そしてそれらが繋がったという経験だけなのである。



2.感覚が変化したからどうなのか?



本稿冒頭において,言語共同体への参入を通じて概念能力の体系を獲得することによって,われわれは,感覚的側面に加えて概念的側面を備えた知覚経験をもつことができるようになる,というセラーズの見解に言及した.ハイブリッドな経験観をとるセラーズに従うなら,われわれが成熟するなかでわれわれの感覚能力に起きる変化は,その本質的なあり方は変わらないまま感覚能力が概念能力と協働できるようになることとして理解されるだろう.しかし,そうした変化を捉える道として,感覚能力そのものが概念能力の獲得によって変容するという考え方がありうることは無視されるべきではない.概念能力の体系の獲得がわれわれにもたらす変化のなかに,命題的思考や意図的行為ができるようになるといった変化とともに,感覚的意識そのものの変容を含めるのは自然なことのように思える.(村上氏、103ページ)


・・・(概念ではなく)言葉を知ることで、あるものを見て「リンゴだ」「バナナだ」と呼ぶことができるようになる。ただ、言葉を学ぶ前と後で、その見えているものが変化するのかどうか・・・これはどちらにも考えられるであろう。

@ あるものがついつい目についてしまう。後日、他の人から「それは○○の実だよ」と教えてもらったとしても、その見えているものが変化するわけではない。
A ただぼんやり見えていた光景ではあったが、他の人から「それは天然記念物の△△という植物だよ」と教えてもらったら、そこに生えていた植物がより鮮明に見えるようになり、より細かい部分にまで気持ちが向くようになった。

・・・このようにどちらの例も挙げることができるのだ。付け加えておくが、他人(あるいは本やらテレビやら)から言葉とそれに付随する様々な情報がもたらされることで、そこに見えているものを「名前」で呼ぶことができるだけではなく、様々な連想あるいは感情を引き起こすこともある。ただ、問題となるのはその見えているもの「そのもの」が視覚経験として変化したかどうかである。

村上氏は「変容するという考え方がありうる」と主張されているが、同様に「変容しないという考え方もありうる」のだ。

そして、もう一つ問題がある。視覚経験を含む感覚が、言語の習得によって変化したからといって、それが「概念主義」「非概念主義」の議論と何の関係があるのか? ということなのだ。

感覚が変化しようとしまいと、言葉と感覚(経験)との繋がりであることには変わりない。感覚が変容したからといって感覚は感覚である。言語習得によって感覚が変化したという因果関係が把握された事実がそこにあるだけであって、「概念的」とか「非概念的」とかいう議論とは全く関係ないのである。

(言語能力の獲得により「意図的行為ができるようになる」というのはもっともなことである。そもそもが「意図・欲望」とは言語表現そのもののことだからである。)



3.イメージモデルではなく、単なる心像



リンゴの描写が,リンゴの外見を再現した具体的個物を生み出すのと類比的に理解できるような仕方で,リンゴの視覚経験はリンゴ――またそこに例化された感覚的性質――という具体的個物を現前させる(村上氏、109ページ)


・・・これは単に視覚経験が心像を生む、というだけのこと。それ以上の説明にはなっていない。

セラーズが「産出的想像力」という表現によって,感覚能力と概念能力の二つの側面をもつひとつの能力を意味していることを押さえておきさえすればよい,知覚経験はこの能力の働きによって形成されることになるが,セラーズによれば,産出的想像力には二つの役割がある.産出的想像力は概念の能力として,「この赤い立方体」のような直示句によって特定される概念的内容を備えた非命題的思考を生み出す.また,産出的想像力はイメージを形成する能力として,感覚能力と想像力によって提供される素材から,「感覚イメージモデル」と呼ばれる複合的対象を構成する.これは,知覚主体の眼前にある立方体の視点依存的なイメージである.(村上氏、104ページ)


・・・これも結局のところ、言葉を知ることで、感覚を名前で呼ぶことができる、その見えているものを「リンゴ」と呼ぶことができる、さらには、「リンゴ」に付随する様々な情報を知ることで、「リンゴ」という言葉から様々なイメージ(心像)が現れて来る、そういうことである。

具体的に想像してみれば良いのだ。「感覚的イメージモデル」とは言うものの、結局それも具体的な心像・イメージでしかない。それら個別的イメージが様々な形を取って現れるのである(それを”視点依存的”と呼んでいるのであろうが)。それらは「複合的」に現われることはない。あくまで心像は個別的である。それらを関連づけることで「複合的」であると”解釈”しているだけなのだ。

私たちは図鑑やら本やらで写真・図と文章説明を見て・読んで、実際に具体的にそこにある物やら生物を同定することもある。しかしそれもあくまで具体的写真、図、映像、そして言語である。それを「モデル」と呼ぶのは勝手であるが、それもあくまで個別的・具体的な視覚的体験であることに変わりはないのである。

結局、言葉と感覚経験との関係は、常に個別的・具体的なもの、「普遍者」とは個別的・具体的なものの集まりでしかないのである。

この個別的な関係において、「イメージモデル」というものを位置づけることはできるのであろうか?

知覚経験における「直示句的」思考は二つの対象をもっている.ひとつは,経験とは独立に存在する眼前の赤い立方体である.もうひとつは,当の経験の一部をなす複合的な感覚的状態,つまりイメージモデルである.眼前の赤い立方体の非命題的知覚とは,赤い立方体のイメージモデルをこの赤い立方体としてみなすことである,と彼は主張するのである.これは哲学的反省のすえに判明することであり,通常の経験においてイメージモデルがイメージモデルとして気づかれることはないとはされる.(村井氏、105ページ)


・・・「イメージモデルがイメージモデルとして気づかれることはない」のである。つまり具体的には経験されていない、ということなのだ。上記「哲学的反省」とは要するに”因果推論”なのである。”そういうものがあるはずだ”・”そういうものがあるからこそ物の存在を把握できるのだ”というセラーズの”推測”にすぎないのである。

そこに見えているものを「立方体」だと呼んだところで、それは”経験とは独立に存在”するわけではない。ただ見えているものを「立方体」と呼んだだけなのである。また、その立方体の”裏側”を想像することもできるが、その”想像”も具体的経験としての個別的心像・イメージなのである。そこに「複合的」なものはないし、「イメージモデル」というものが関与していると想像するのは自由であるが、あくまで想像の域を出ないものでしかないのだ。
(2018.9.7[金])
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経験により脳細胞の働きを根拠づけることはできるが、脳細胞の働きから経験を根拠づけることはできない


小口峰樹著「知覚は矛盾を許容するか?」『Citation Contemporary and Applied Philosophy (2014)』5、1016〜1032ページ

・・・の分析の続きです。

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概念主義・非概念主義の議論の前提そのものに問題があることは、前回(従来の経験則が新たな経験によって改変されるだけ)論じた。

今回は、小口氏の見解における心理主義的手法の問題点について指摘しておきたい。


1.知覚経験に矛盾はありえない



ある対象は運動し、かつ同時に、運動していない」(小口氏、1024ページ他)というのは単なる言い方の問題であって、実際に経験としては動いているのである。その上で過去の経験によってもたらされた”経験則”として錯視というものがあるということを知っている、それが錯覚であるということを知っている、それだけのことである。

そもそもが知覚が矛盾を含むということはありえない。矛盾とは「四角い三角」のように経験(想像も経験)として現れることのないもの、言語表現が知覚経験(あるいは心像やらも)と結びつけられることのないものなのである。「滝の錯視がもつ矛盾した内容」(小口氏、1021ページ)という議論の前提そのものがおかしいのである。

「ある方向への運動が起こっている」という情報と「位置変化が生じていない」という情報がある物体のもとへ統合されたとしても、それぞれの情報は互いの内容について含意を有しておらず、それゆえ知覚経験の内容としては矛盾していないということになる。それらの情報が矛盾するのは、当該の知覚内容が知覚判断として信念体系に組み込まれ、「運動は必ず位置の変化をともなう」という背景的な信念と組み合わされたときである。 (小口氏、1028ページ)


・・・という小口氏自身の説明が、上記の私の説明を裏付けているともいえる。「知覚判断」とは要するに知覚の言語表現である。言語表現されたとき、はじめて「矛盾」というものが現れる。知覚経験にそもそも「矛盾」というものはない。そして「背景的な信念」とは要するに「経験則」のことである。新たな経験により経験則が覆されるか覆されないか、ただそれだけのことである。

そもそもが「ある対象は運動し、かつ同時に、運動していない」という言語表現を、知覚経験として取り扱うこと自体おかしいのだ。

西田とジョンストンによる運動残効を用いた実験研究(小口氏、1023ページ)は、「運動残効において生じる見かけの運動にともなって、その運動速度から計算されるよりは微弱なものであるが、同時に見かけ上の傾きの変化が誘導される」として「運動残効において、順応方向とは逆の運動だけではなく、対象の位置(この場合は帯模様の傾き)の変化も誘導される」という経験が記録されただけであって、経験以上のものが見出されたわけではない。

滝の錯視においても同様に、岩は完全に同じ位置に見え続けるのではなく、多少なりとも位置の変化をともなうように見える」(小口氏、1023〜1024ページ)というものを実験によってわざわざ実証する必要もない。実際に動いて見えるものは動いて見えるのであって、ただその経験を追認しただけのことなのだ。別に「運動残効の速度から推定される位置の変化と見かけ上の位置の変化とのあいだにはなお食い違いが存在」(小口氏、1024ページ)することは、「運動残効における運動内容と位置内容のあいだには依然として矛盾した関係が含まれている」(小口氏、1024ページ)ことではないのである。


2.経験により脳細胞の働きを根拠づけることはできるが、脳細胞の働きから経験を根拠づけることはできない



多くの生物の感覚処理システムでは、細胞間に階層的な処理構造を導入することで、こうした観察者の視点に相当する仕組みが導入されている。(小口氏、1025ページ)


・・・そもそもがこういった階層構造は、私たちの具体的経験との対応関係により示されるものである。例えば特定の脳細胞の反応と「45度の線分」という視覚経験との対応関係により、その細胞が「傾き選択制細胞」と特定されている。

マッセンは、信念や判断に至る以前の初期知覚過程において、 すでに入力情報に対して概念的な分類が行われていると考える。感覚システムは刺激駆動型のシステムであるが、単に外界からの入力情報を受動的に処理しているのでなく、ある情報と別の情報とを同じカテゴリーのものとして扱うという分類活動を行っている。(小口氏、1024〜1025ページ)


・・・これについても、まずは「同じだ」と判断された事象が経験としてまず現れており、それと脳細胞の働きが関連づけられ、その一致が認められたのである。

見誤ってはならないことだが、同じ脳細胞が反応するから「同じ」なのではない。「同じ」と同定できた事実がまずあって、その経験の事実と脳細胞の反応(これも実験による観測データとしての経験)との対応関係(因果関係)として理論化されるのである。「同じ」という判断が先んじることなしに、脳細胞の働きの規則性というものが同定されることはありえないのである。

同一性・差異性が経験として先んじて把握されているからこそ、「選択制をもつ個々の処理ユニット」(小口氏、1026ページ)というものが同定されるのだ。


知覚経験が脳内の分類処理の過程を経て可能になる」(小口氏、1027ページ)という見解は、まず知覚というものが具体的経験として現れており、その経験と脳細胞の反応との因果関連が導かれた上で、脳細胞の働き⇒知覚、という因果関係が構築されているのである。

何が正しくて何が間違っているのか、それは脳細胞の反応により示されるのではない。まずは経験に基づく事実把握が先んじているのであって、その事実把握に基づいて脳細胞の働きが同定されている。

そもそもが、小口氏は一連の実験、および実験による因果関連の把握の過程、つまり科学的実験・研究過程が、いかに成立しているのか、細胞と同定される過程とはいかなるものか(実験者が何をもって「傾き選択制細胞」を同定しているのか)、因果関係とは何か、そういったものの検証をすっ飛ばして、科学実験の結果を哲学の根拠としてしまっているのだ。

科学理論は哲学の根拠にはなりえない。科学的手法の根拠を示すのが哲学の役割なのである。
2018.9.2[日]

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