村井忠康著「知覚と概念―セラーズ・マクダウェル・「描写」―」『科学哲学』45(2)、2012年、99〜114ページ
・・・の分析の続きです(本論文に関してはこれで終わりです)。
1.概念(能力)=言語(能力)である
彼の心理学的唯名論,すなわち,思考は「言語的」事態であるという立場(村上氏、107ページ) ・・・上記「彼」とはセラーズのことである。「言語能力と概念能力の結びつき」(村上氏、108ページ)なのではない。この論文で扱われている「概念能力」とは要するに「言語能力」のことなのである。
セラーズによれば,言語共同体への参入とともに概念能力の体系をわれわれが獲得する(村上氏、100ページ) ・・・「言語共同体」に参入したらわれわれが獲得するのは「言語能力」ではないのか? なぜ「言語」が何の説明もなしに「概念」に入れ替わるのか? この”すり替え”が問題をややこしくしてしまっているのである。
われわれの知覚経験が,根本的に異なるカテゴリーに属する状態としての感覚と思考からなるという,いわば「ハイブリッドな」経験観は,経験における両者の統合のあり方――を捉えるのにふさわしい枠組みだろうか.(村上氏、100ページ) ・・・”「感覚と思考からなるという,いわば「ハイブリッドな」経験”とはいったいどういうものであろうか? 要するに「思考」も「経験」ということなのである。
では「思考」とは何なのであろうか? 「思考」そのものとして現れる具体的経験はいったいどこにあるだろうか? ・・・結局のところ、そんなもの探してみても見つかりはしないのである。
具体的に経験を追っていけば・・・感覚やその他の経験を言語で表現したり、言語と感覚とを繋げたり、言語から何がしかのイメージを浮かべたり、感覚と感覚とを関連づけたり、(感覚に裏付けられた)言葉どうしの関係を構築したり、そういったことではなかろうか?
つまり言葉と経験との関連づけ、経験と経験との関連づけ、それら一連の経験に対し「思考」という言葉を当てはめているのである。「思考そのもの」の経験はない。しかし言語(経験)や感覚(経験)というものは実際にある。それらを関連づけている経験もある。ただそれだけのことなのだ。
「感覚と思考」の「統合のあり方」を問う前に、既に言葉と(感覚を含めた)経験とは、具体的経験として既に繋がってしまっているのである。「統合のあり方」とは、所詮”後付け”の辻褄合わせ、既に繋がっている事実があって、その繋がりの理屈付けを後付けで探しているだけなのだ。
しかし、言葉(これも経験)と経験(感覚含む)との繋がりとは、究極的に”論理”で説明できないところに行きつく。ただ繋がった事実だけが明らか(明証性を有する)なのである。
「知覚経験が感覚と思考を含む」という言い方がおかしいのだ。知覚と感覚との言葉の使い分けで混乱してしまうだけである。ただそこにあるのは感覚やら心像やらと言葉、そしてそれらが繋がったという経験だけなのである。
2.感覚が変化したからどうなのか?
本稿冒頭において,言語共同体への参入を通じて概念能力の体系を獲得することによって,われわれは,感覚的側面に加えて概念的側面を備えた知覚経験をもつことができるようになる,というセラーズの見解に言及した.ハイブリッドな経験観をとるセラーズに従うなら,われわれが成熟するなかでわれわれの感覚能力に起きる変化は,その本質的なあり方は変わらないまま感覚能力が概念能力と協働できるようになることとして理解されるだろう.しかし,そうした変化を捉える道として,感覚能力そのものが概念能力の獲得によって変容するという考え方がありうることは無視されるべきではない.概念能力の体系の獲得がわれわれにもたらす変化のなかに,命題的思考や意図的行為ができるようになるといった変化とともに,感覚的意識そのものの変容を含めるのは自然なことのように思える.(村上氏、103ページ) ・・・(概念ではなく)言葉を知ることで、あるものを見て「リンゴだ」「バナナだ」と呼ぶことができるようになる。ただ、言葉を学ぶ前と後で、その見えているものが変化するのかどうか・・・これはどちらにも考えられるであろう。
@ あるものがついつい目についてしまう。後日、他の人から「それは○○の実だよ」と教えてもらったとしても、その見えているものが変化するわけではない。 A ただぼんやり見えていた光景ではあったが、他の人から「それは天然記念物の△△という植物だよ」と教えてもらったら、そこに生えていた植物がより鮮明に見えるようになり、より細かい部分にまで気持ちが向くようになった。
・・・このようにどちらの例も挙げることができるのだ。付け加えておくが、他人(あるいは本やらテレビやら)から言葉とそれに付随する様々な情報がもたらされることで、そこに見えているものを「名前」で呼ぶことができるだけではなく、様々な連想あるいは感情を引き起こすこともある。ただ、問題となるのはその見えているもの「そのもの」が視覚経験として変化したかどうかである。
村上氏は「変容するという考え方がありうる」と主張されているが、同様に「変容しないという考え方もありうる」のだ。
そして、もう一つ問題がある。視覚経験を含む感覚が、言語の習得によって変化したからといって、それが「概念主義」「非概念主義」の議論と何の関係があるのか? ということなのだ。
感覚が変化しようとしまいと、言葉と感覚(経験)との繋がりであることには変わりない。感覚が変容したからといって感覚は感覚である。言語習得によって感覚が変化したという因果関係が把握された事実がそこにあるだけであって、「概念的」とか「非概念的」とかいう議論とは全く関係ないのである。
(言語能力の獲得により「意図的行為ができるようになる」というのはもっともなことである。そもそもが「意図・欲望」とは言語表現そのもののことだからである。)
3.イメージモデルではなく、単なる心像
リンゴの描写が,リンゴの外見を再現した具体的個物を生み出すのと類比的に理解できるような仕方で,リンゴの視覚経験はリンゴ――またそこに例化された感覚的性質――という具体的個物を現前させる(村上氏、109ページ) ・・・これは単に視覚経験が心像を生む、というだけのこと。それ以上の説明にはなっていない。
セラーズが「産出的想像力」という表現によって,感覚能力と概念能力の二つの側面をもつひとつの能力を意味していることを押さえておきさえすればよい,知覚経験はこの能力の働きによって形成されることになるが,セラーズによれば,産出的想像力には二つの役割がある.産出的想像力は概念の能力として,「この赤い立方体」のような直示句によって特定される概念的内容を備えた非命題的思考を生み出す.また,産出的想像力はイメージを形成する能力として,感覚能力と想像力によって提供される素材から,「感覚イメージモデル」と呼ばれる複合的対象を構成する.これは,知覚主体の眼前にある立方体の視点依存的なイメージである.(村上氏、104ページ) ・・・これも結局のところ、言葉を知ることで、感覚を名前で呼ぶことができる、その見えているものを「リンゴ」と呼ぶことができる、さらには、「リンゴ」に付随する様々な情報を知ることで、「リンゴ」という言葉から様々なイメージ(心像)が現れて来る、そういうことである。
具体的に想像してみれば良いのだ。「感覚的イメージモデル」とは言うものの、結局それも具体的な心像・イメージでしかない。それら個別的イメージが様々な形を取って現れるのである(それを”視点依存的”と呼んでいるのであろうが)。それらは「複合的」に現われることはない。あくまで心像は個別的である。それらを関連づけることで「複合的」であると”解釈”しているだけなのだ。
私たちは図鑑やら本やらで写真・図と文章説明を見て・読んで、実際に具体的にそこにある物やら生物を同定することもある。しかしそれもあくまで具体的写真、図、映像、そして言語である。それを「モデル」と呼ぶのは勝手であるが、それもあくまで個別的・具体的な視覚的体験であることに変わりはないのである。
結局、言葉と感覚経験との関係は、常に個別的・具体的なもの、「普遍者」とは個別的・具体的なものの集まりでしかないのである。
この個別的な関係において、「イメージモデル」というものを位置づけることはできるのであろうか?
知覚経験における「直示句的」思考は二つの対象をもっている.ひとつは,経験とは独立に存在する眼前の赤い立方体である.もうひとつは,当の経験の一部をなす複合的な感覚的状態,つまりイメージモデルである.眼前の赤い立方体の非命題的知覚とは,赤い立方体のイメージモデルをこの赤い立方体としてみなすことである,と彼は主張するのである.これは哲学的反省のすえに判明することであり,通常の経験においてイメージモデルがイメージモデルとして気づかれることはないとはされる.(村井氏、105ページ) ・・・「イメージモデルがイメージモデルとして気づかれることはない」のである。つまり具体的には経験されていない、ということなのだ。上記「哲学的反省」とは要するに”因果推論”なのである。”そういうものがあるはずだ”・”そういうものがあるからこそ物の存在を把握できるのだ”というセラーズの”推測”にすぎないのである。
そこに見えているものを「立方体」だと呼んだところで、それは”経験とは独立に存在”するわけではない。ただ見えているものを「立方体」と呼んだだけなのである。また、その立方体の”裏側”を想像することもできるが、その”想像”も具体的経験としての個別的心像・イメージなのである。そこに「複合的」なものはないし、「イメージモデル」というものが関与していると想像するのは自由であるが、あくまで想像の域を出ないものでしかないのだ。
(2018.9.7[金])
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