2018年08月の日記


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従来の経験則が新たな経験によって改変されるだけ


小口峰樹著「知覚は矛盾を許容するか?」『Citation Contemporary and Applied Philosophy (2014)』5、1016〜1032ページ

・・・は、概念主義の立場から非概念主義へいかに反論できるか、という内容の論文である。

 知覚の哲学の分野においては、1990年代以降、「知覚経験はどのような種類の内容を有しているのか」という問いをめぐって「概念主義(conceptualism)」と「非概念主義(nonconceptualism)」の対立が主要な争点のひとつを形成している。非概念主義者によれば、信念や判断が概念によって構造化された内容を備えている一方で、知覚経験はそれらとは異なる種類の内容、すなわち非概念的内容を備えている。(小口氏、1016〜1017ページ)


クレインは非概念主義の論拠として「知覚の改訂不可能性」(Crane 1992)および「知覚の矛盾許容性」(Crane 1988; reprinted in 2003)というふたつの特徴を挙げている。クレインによれば、知覚経験は信念とは異なり、 第一に、それに反する証拠が示されたとしても改訂されることはなく、第二に、あからさまに矛盾した内容であってもそれを排除することなく許容しうる。知覚経験がもつこれらの特徴は、知覚が信念とは異なる内容をもつことを示唆するものである。
 本論では、これらのうち後者の知覚の矛盾許容性に焦点を当て、対立する概念主義の側からどのような応答が可能であるかを検討する。
(小口氏、1017ページ)


・・・私が何度も述べていることであるが、これら概念主義・非概念主義との論争になっている前提、あるいは用語というものが適切であるか、そこから検証していく必要があるのだ。

1.「信念」「概念」という用語の問題



「信念」という言葉が問題をややこしくしている。実際のところ、

単なる言葉と知覚との繋がりという経験

・・・でしかないものが、

知覚経験⇒信念・判断

・・・という因果関係にすり替えられてしまっているのだ。そして「信念」というものは何なのか・・・と問われても、それが何か明確に示すことができない、明らかなのはやはり言語表現と知覚との繋がりでしかないのである。

たとえば、明けの明星が宵の明星と同一であることを知らない人物は、「火星は明けの明星であり、かつ、宵の明星ではない」という内容の信念をもつことができる。それゆえ、〈明けの明星〉と〈宵の明星〉はたとえ指示対象が同一であるとしても異なる概念である。通常、信念を構成する内容は概念的なものであり、この認知的意義の原理が適用可能であると考えられている。(小口氏、1019ページ)


・・・”「火星は明けの明星であり、かつ、宵の明星ではない」という内容の信念”とは結局のところ「火星は明けの明星であり、かつ、宵の明星ではない」という言語表現である。その言語表現が「正しい」「間違い」とされるのは、「火星」「明けの明星」「宵の明星」という言葉とそれが指し示す対象物との関係で示される。

小口氏は、「信念を構成する内容は概念的なもの」(小口氏、1019ページ)とされているが、具体的に検証してみれば、結局のところ、言語表現とそれに対応する対象物(突き詰めれば知覚経験あるいは心像)との繋がりでしかないのである。言い換えれば、「概念」とは言語表現とその「意味」としての対象物(知覚経験やら心像やら)のセットのことを表わしているともいえる。

つまり、知覚経験が「概念的」というのは・・・「判断」「信念」(具体的には言語表現)ではない知覚経験が「概念的」というのは、おかしな話なのである。言語表現を除いた経験が言語表現を含んでいる、というのだから。

知覚経験が、信念・判断をもたらす、というのであれば、例えば既に「ひまわり」という花を図鑑やらテレビで見て知っている、「ひまわり」という言葉が指し示す写真・映像・(記憶としての)心像のセットを知識として持っている、その時、そこに見えている花は何なのか、という時、結局のところ、写真やら映像やら心像やらと、そこに見えているものとの「同一性」の検証、ということになろう。

認知的意義の原理……内容 c が概念的であるならば、c の構成要素である F と G は、ある人物がそ れらが述定されうる任意の事物(ないしは事象)a について「a は F であり、かつ、a は G でない」という 内容の志向的状態を持ちうるとき、異なる概念である。 (小口氏、1019ページ)


・・・というとき、FやGは言語として示されるではあろうが、結局のところ、FやGという言葉に対応する何がしかの経験(心像やらその他の知覚やら)との比較として検証されるものである。そしてそれらの差異や同一性の根拠は究極的には論理で説明できないところに行き着く。ただ「違う」と思ったから違う、「同じ」と思ったから同じ、そしてその理由は事後的に因果的に分析はできるが、やはり究極的に論理で説明できない場所に行き着くのである。それについては、「理由」とは因果関係における「原因」のことでも述べた。

ただ、いずれにせよそこで比較されるのは「概念」ではなく知覚やら心像なのである。


2.新たな経験により、それまでの「経験則」に変更が加えられるだけ



滝の錯視は「運動残効(motion aftereffect)」と呼ばれる錯視の一種である。流れ落ちる滝をしばらく眺めた後に、静止した岩へ素早く視線を向け変えると、その静止しているはずの岩は滝の動きとは逆方向に動いていくように、つまり上昇していくように見える。クレインは、このとき岩は静止していると同時に運動しているように見えると主張する。つまり、滝の錯視には矛盾した内容が含まれているのである。 (小口氏、1018ページ)


・・・これは事実の”曲解”とでも言おうか・・・「矛盾」とは全く別の話である。そもそもなぜ「錯視」であると分かるのであろうか?

要するに、(特定の条件なしに)「岩が勝手に動くことはない」という経験則を知っているから、動いているはずはない、それは錯覚だ、と理解できるのではないか?

「動いていないものが動く様に見えるはずがない」と思っていたところ、実際には岩が動いて見えた。それまでの経験則が新たな経験により覆されたのである。つまりその経験によって「人間は滝を見たあとに錯視を起こす可能性がある」という経験則(経験の因果的連鎖)が加えられたのだ。

場合によっては「滝を見たあとに岩を見たら岩が動くことがある」という経験則が導かれる可能性もある。ただ、その見解も、その岩を様々な視点から何度も観察していけば「岩が動くことはない」と判断され、「岩が動くように見えただけだ」という結論に至るではあろうが。(もちろん、それらの検証なしに、岩が動くと思いこむ場合もあろう)

そもそもが「矛盾」とは、「四角い三角」のように言語表現されたものが経験として(心像としても)現れることがないもののことである。知覚経験そのものが”矛盾を許容”するということはありえない。

クレインや小口氏が扱われている事例は、単に新たな経験がそれまでの経験則を覆す事例であるにすぎない。それによって「真理」というものが改められ新しい理論となっていく。そもそも科学というものもそうではないか?

自己欺瞞についての典型的な解釈によれば、 自己欺瞞に陥っている主体は「aはFである」と「aはFでない」という相矛盾する信念を同時に有している。 たとえば、そうした主体は、「妻は浮気をしている」という命題が真であることを正当化する証拠を有しており、それゆえそう信じていながら、同時に、その命題が偽であることを強く願うがゆえに、自らを欺いて「妻 は浮気をしていない」という信念を形成する。通常の推論能力をもつ主体の場合、ここから「妻は浮気をしており、かつ、浮気をしていない」という矛盾した内容をもつ信念を形成するはずである。自己欺瞞における問題のひとつは、通常の合理的な能力をもつ主体が、「a は F である」と「a は F でない」という互いに矛盾した信念をもつことはいかにして可能かというものである。(小口氏、1021ページ)


・・・これももう少し厳密に考えた方が良いのではなかろうか。いろいろな風に捉えることができる。

・判断を迷っている、あるいは判断がつきかねる場合。
・上記の判断は因果推論を伴うものである。因果推論も絶対的なものではない。新たな要因が加わることで別の事実が現れることもある。特定の要因が揃っていたとしても、全く感知しなかった別の要因によって結論が変化する可能性もある。
・「浮気をしていない」と思いこんでいたのであれば、それは実際にそう思っていたことである。事後的に、他者から「本当は浮気していると思っていたのではないか」と問われ、はっとして「本当はそうだったのかもしれない」と本人なりに気付いたとする。それら一連の経験を因果的につなげることで、「自己欺瞞」していたと推論した。要するに「自己欺瞞」とは事後的・因果的に導かれる分析結果なのである。

最後になるが、

滝の錯視において矛盾したものとみなされている運動情報と位置情報は、実際には互いに対する含意をもつことなく別々の特徴マップで処理されており、それゆえ知覚経験の水準では矛 盾は生じていないことになる。滝の錯視が矛盾した内容を含まないならば、知覚経験には矛盾非許容性という特徴が成り立たないというクレインの議論は失敗していることになる。加えて、両眼視野闘争という現象は、同一の特徴マップ内で矛盾した内容が処理される場合には、知覚システムはむしろ矛盾を回避するように働くと解釈可能な事例であり、これは知覚内容が信念と同様に矛盾非許容的であるということを示唆している。 (小口氏、1029ページ)


・・・そもそもが「知覚経験の水準」に「矛盾」があるとかないとか考えるのがナンセンスなのだ。

上記の小口氏の説明は、被験者がそれが錯覚体系であることを理解できていた、という事実を、脳科学から説明できた・追認できた、ということ以上のことは説明していないのではないか?

哲学は、細胞の働きから説明するものではない(それは心理主義の一種)。その前に、これは「細胞」だとか、これは「脳」だとか、そういった把握ができること、データとは何か、様々なデータを関連づける「因果関係」とは何か(「因果関係」と関連して「働き」とは何かという問題もある)、それらの事実把握がまず先にあって、それを基盤に細胞の働きというものが明らかになる、科学的研究の根拠が明確になるのだ。
(2018.8.27[月])
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事実把握が間違っていると気づかせるのも「経験」である(その2)+「懐疑のグローバル化」は知覚対象に関する様々な存在判断を全面的に誤りであることにはしない


小口峰樹著「知覚経験の選言説と概念説」『日本科学哲学会第40回大会』2007年(発表原稿)

・・・分析の続きです。(とりあえず今回が最後です)

小口氏は、マクダウエルの選言説を精緻化するために、二通の「経験の誤り」というものを示されている。

まず、「経験の誤り」に関して可能な二通りの解釈を区別したい。それは「錯覚」と「幻覚」の区別である。一般に、錯覚とは、実際に存在する知覚対象に関してそれがもつ諸特性を誤って認識してしまう現象を指す。他方、幻覚とは、実際には存在しない対象についてそれがあたかも存在するかのように知覚してしまう現象を指す。具体的に言えば、知覚者が「あの猫は茶色い」という知覚内容をもった場合、その猫が本当は白かったならば錯覚としての誤りを犯したことになり、そもそもその猫が存在さえしていなかったならば幻覚としての誤りを犯したことになる。(小口氏、6ページ)


・・・この区分もなんだか変である。「言葉」を無視しているのも一因かもしれない。そもそもが”「あの猫は茶色い」という知覚内容”とはいったい何なのか? 小口氏は「言葉」を無視しているから、次の違いを見逃してしまっているのである。

(1) 見間違え:見えている猫が「茶色」だと思っていたが、後から本当は「白」だったと分かった
(2) 間違った言葉選び:見えている猫を「茶色」だと思っていたが、実はその見えていた色は「白」という色のことだった((2a)間違って言葉を覚えていた、あるいは(2b)単なる言い間違え)

(1)に関しては、まさか白色を茶色に見間違えることはないだろう・・・とは思うのだが、例えば、ハイキングなどしていて、遠くに「人がいる」と思ったら「人の形に似ている岩」だった、あるいは人でなくても何かの生き物と見間違えた、ということならありうるかもしれない(そういうことがあったような記憶はある)。

小口氏は、「経験の誤り」「知覚内容」と一括りに捉えてしまって、それが知覚と言語表現という別個の経験(そしてその繋がり)であることを無視しているから、この違いについて気づかないのである。「経験」と「判断」ではない。「知覚」と「言葉」という「経験」なのである。

上記(1)は小口氏の言われる「幻覚」とそう大差ない。白いものを茶色に見間違えたのだとしたら、そこにはない「茶色」を見てしまったということである。「幻覚」と何が違うのであろうか? つまり、事実把握の誤りの区分としては、繰り返すが

(1) 見間違え
(2) 言葉の選択の誤り

・・・の方がより正確であると言える。そしてどちらにせよ、それが「間違い」であると気づくのも”事後的な”経験によるのである。対象が実際にはなく「幻覚」であったとわかるのもやはり”事後的な”経験によるのである。

「単称的内容の対象依存性」(小口氏、4ページ、7ページ)に関しては異存はない。むしろ「単称的内容」に限らず、言語表現の「正しさ」はその対象が実際にあるかどうか(それは物質的に存在しているということに限らない)で定まって来る。

ただ、ある知覚対象が幻覚であると気づかせる経験が現れなかったら・・・それを「真理」としてずっと信じ続けるだけである。それが個人レベルでなく、もっと大きな社会集団、あるいは世界全体であったらどうだろうか? 誰も知らないことはまだ知られていないのである。

もちろん小口氏はご自身の区分よりも他に様々なものがありうることは承知の上で、

本文で論じられる内容を受けて言えば、ここでの区別のポイントはむしろ「その経験がどのような判断可能な内容をもっているものとして一人称的観点から捉えられるか」という点に存する。(小口氏、6ページ)


・・・という切り口から区分されているわけである。しかし、この観点も的外れ、事実認識の誤りに気づかせるのもやはり「経験」である。小口氏の区分に従えば「一人称的観点」によるものなのである(ただ厳密に言えば経験に一人称も二人称もないのだが)。

ただ、いずれにせよ「何か見えてそれを言語表現した」事実は変わらない。見間違えであれ、言葉の間違いであれ、その時にはそれが見え、それを言語表現したのである。その時点において「心的状態」(小口氏、7ページ)が異なるとなぜ言えるのか? そして(繰り返しになるが)、見間違え・幻覚であると判明するのも、結局別の経験によるものであって、その経験なしにそれが「幻覚」であったと判断しようもないのである。

小口氏の言う「心的状態」が異なる、というのであれば、それはむしろ「主観的な観点からの経験内容の特定には現れてこない」「幻覚を引き起こすような脳状態」(小口氏、6ページ)のことではないのか? それらは実験やら観察を重ね構築された因果関係に基づく知識である。

小口氏は、

最大公約数論法は「正しい経験と誤った経験が主観的な観点から互いに識別不可能であれば、両者は同じ心的状態である」という前提から出発するものだからである。 (小口氏、7ページ)


・・・という見解における「同じ心的状態」だから「主観的な観点から互いに識別不可能」である、という部分を問題視すべきであったのだ。

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「懐疑のグローバル化」は知覚対象に関する様々な存在判断を全面的に誤りであることにはしない



懐疑のグローバル化が含意するのは、経験内容が全体として実在と調和していないかもしれないという可能性を積極的に承認することだからである。もしこうした可能性を承認するとすれば、知覚対象に関する様々な存在判断(例えば、「その縁側の上に一匹の猫が存在している」といった)までもが全面的に誤りであることになり、その結果、知覚内容の全体は幻覚経験の場合と同様に内容を失うことになる。だとすれば、われわれはこうした事例を「事実の単なる見かけ」として選言説の枠内において問題なく処理することができる。懐疑のグローバル化は、経験内容が全体として誤っているという可能性ではなく、経験がそもそも全体として内容をもっていないという可能性を導く にすぎないのである。 (小口氏、7ページ)


・・・これはどう見ても詭弁である。間違いである可能性を排除できない、ということは事実把握が全面的に誤りであることにはつながらない。小口氏はまるで絶対的真理というものを把握できていると信じているかのようだ。

「経験内容が実在と調和していないかもしれない」という懐疑、それこそが「経験則」であることを小口氏は見逃している。私たちは、人が錯覚やら幻覚を起こしうることを、自らの経験や本やテレビなどのメディア、あるいは他者の言葉などを通じて知っている。もしそれらの知識(因果的知識、経験則)なしに、いかにして私たちは事実認識を懐疑できるであろうか?

私たちを疑わせるのも、やはり経験なのだ。
2018.8.26[日]
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事実把握が間違っていると気づかせるのも「経験」である


小口峰樹著「知覚経験の選言説と概念説」『日本科学哲学会第40回大会』2007年(発表原稿)

・・・分析の続きです。

われわれはいかなる知覚経験を有しているときにも、こうした誤った経験に陥っている可能性を免れてはいない。だが、われわれは正しい経験と誤った経験とを主観的な観点から識別することはできない。なぜなら、誤った経験とは「経験が生じた時点においては正しい経験であるかのようにみえた経験」であり、それゆえ、経験の誤りが判するとしてもそれは常に事後的にでしかないからである。だと すれば、ここから以下のような帰結が生じてくるのは避けがたいだろう。
定義上、誤った経験においてわれわれが捉えているのは、実在事実に達していない何ものかである。しかし、誤った経験と正しい経験が主観的に識別不可能であり、かつ、両者が同じ心的状態にあるのだとすれば、正しい経験においてわれわれが捉えているのも、実在事実に達していない何ものかであると考えざるをえなくなるだろう。すなわち、われわれが知覚経験において捉えているのは正しい経験と誤った経験とに共有されている何らかの内在的な「共通要素」であり、それを真にする実在そのものは経験にとって外在的なものにすぎないのである。
(小口氏、3〜4ページ)


・・・こういった「最大公約数論法」をマクダウエル(および小口氏)は批判し乗り越えようとしているのであるが、そのやり方自体が的外れなのである。

「実在そのものは経験にとって外在的なもの」という見解は、「「実在から経験へ」の道筋も否定される」でその誤りを指摘している。「実在」も経験によって説明するしかないのであるし、実際、事実としてそうしている。

われわれは正しい経験と誤った経験とを主観的な観点から識別することはできない。なぜなら、誤った経験とは「経験が生じた時点においては正しい経験であるかのようにみえた経験」であり、それゆえ、経験の誤りが判するとしてもそれは常に事後的にでしかないからである。(小口氏、3ページ)


・・・これも全くの誤解である。「経験とはいったい何なのか?」で既に述べたことであるが、ある時点における経験の誤りを気づかせるのも、やはり「経験」なのである。

では、かつての「誤った経験」を正した「正しい経験」が、また”事後的に”「間違った経験」であると指摘される可能性はなくなったのであろうか? どっちにしてもその時その時において「実在事実に達して」いると判断される認識(経験と言語表現との繋がり)があり、それがある時に「間違い」であったと気づかせる新たな経験が現れることもあるのである(もちろん現れないこともある)。

つまり、「誤った経験と正しい経験が主観的に識別不可能」という見解は経験によって根拠づけられていないものなのである。もちろん他者から指摘されたり、本やらその他のメディアによって間違いを知ることもあるし、そういうことの方がむしろ多いかもしれない。

しかし、それさえも、自らが見たり読んだりした挿絵・写真やら文章(言語)説明であったり、他者の「言葉」を聞いたり、という「経験」であることに変わりはない。また、他者が「それはリンゴの本物ではなく模造品だ」と私に(言葉で)知らせてくれたとしても、そこに見えているものはやはり実際に見えているもの、何ら変わることはないのである。
2018.8.25[土]
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「理由」とは因果関係における「原因」のこと


小口峰樹著「知覚経験の選言説と概念説」『日本科学哲学会第40回大会』2007年(発表原稿)

・・・分析の続きです。

これまでの記事経験とはいったい何なのか?「実在から経験へ」の道筋も否定されるで、マクダウエルの見解における「実在」⇒「経験」および「経験」⇒「信念」の道筋を否定した。

マクダウエル、小口氏ともに「経験」とは何か、具体的な経験について全く顧みることなしに語っているのである。

「信念」そのものの経験などない。ただある知覚経験と「リンゴだ」という言語表現が繋がったという事実は、実際に現れてしまった経験として明証性を有するものであって、そこはいかに「論理」を駆使したとしても(あるいは「構造」のようなものがあろうとなかろうと)覆すことのできない厳然たる事実なのだ。

マクダウエルによれば、われわれの信念体系は、経験との間に正当化根拠づけといった理由付与関係 (reason-giving relation)を結ぶことにより、外的な合理的制約(external rational constraint)を獲得しなけれ ばならない。しかし、仮に経験が信念とは異なり概念的に構造化されていないとすれば、それはいかにして信念に対する単なる「因果的」制約を越えた「合理的」制約を課すことができるのだろうか。(小口氏、2ページ)


・・・これは経験とは何か、そして因果関係とは何か、ということに関する全くの誤解から来ている見解である。「理由」とは要するに「原因」のことである。

理由・原因があって経験が現れているのではない。
経験がまず現れていて、その「理由」「原因」とは何か、経験と経験とを関連づけながら事後的に分析するのである。


ものごと(具体的には現れてくる経験)に「理由」「原因」があるのかどうか、アプリオリに決定などされていない。「理由」「原因」があるのでは、と推論したり、「理由」「原因」を他の経験に求めたとしても、それが絶対に正しいという保証などないのである。因果関係とはそういうものなのだ。(このあたりはヒュームの因果理論を参照のこと)

あるものを見て「リンゴだ」と思った事実がまずあって、その「理由」は事後的に因果推論するものなのである。そしてその「理由」は究極的には”論理”で説明できないところに行き着く。

拙著、

哲学的時間論における二つの誤謬、および「自己出産モデル」 の意義
http://miya.aki.gs/miya/miya_report17.pdf

・・・から引用してみる。

 言葉と(言葉の意味としての)経験との繋がりは、究極的に論理で説明できない場所へ行き着く。青とは何か、と聞かれても、実際に青い色を指し示すしかない。あるいは自分で青い色を思い浮かべるしかない。青色を波長で説明できるかもしれない。しかしその分析には、実際に青色と人々が認める具体的事物があり、それを測定した上で波長との関係が見出せるのである。しかも波長とは何か、と聞かれればやはりそれも具体的な波形を描いたりして示すしかない。言葉の意味に対する説明を細分化・精密化したり厳密な定義を与えたりすることはできる。しかしそれらも究極的には論理で説明不可能な言葉と経験との繋がりへたどり着いてしまうのである。
 しかし論理で説明できないからといって、経験と言葉が繋がった事実、目の前のものを見て「リンゴだ」と思った事実は疑いようのない「現実性」を持つものなのである。(そして、それが客観的に正しいというのは実在性のレベルの話である)
そもそも経験を論理で説明することが間違いなのだ。経験から論理が導かれるのであって、論理によって経験が説明されるのではない。
(宮国、9ページ)


・・・分析哲学・科学哲学においては、この”論理”で説明できないものを”論理”で説明しようとしてしまっているのである。

マクダウエルをこうした疑問へと駆り立てているのは、彼がセラーズデイヴィドソンから受け継いだ「ある二つの項が理由付与関係に立つためには、両者はともに概念的に構造化されていなければならない」という洞察である(Sellars(1997)およびDavidson(1986))。(小口氏、2ページ)


・・・そもそもこの見解の根拠などいったいどこにあるのだろうか? 因果関係が成立するとき「構造化」がなされているという事実はいったいどこにあるのだろうか? 「構造化」されているという事実はいったい何によって示されるのであろうか?

そのものを「赤色」と呼ぶのに「構造」というものが必要であるという根拠などいったいどこにあるのだろうか? 単なるセラーズ、デイヴィドソン、マクダウエルの勝手な”決めつけ”以外の何物でもないのである。
(2018.8.24[金])
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「実在から経験へ」の道筋も否定される


小口峰樹著「知覚経験の選言説と概念説」『日本科学哲学会第40回大会』2007年(発表原稿)

・・・分析の続きです。

前の記事(「経験とはいったい何なのか?」)で、「信念」とは何なのか、それさえも経験から説明するしか方法がない、しかも経験を具体的に検証してみれば「信念」とは何か明確に説明することができない、「信念そのもの」の経験などどこを探しても見つからないことを示した。

これは「実在」「存在」についても同じことが言える。つまり、マクダウエルや小口氏の説明の方向自体が間違っているのだ。

「存在」「実在」がまずあってそこから経験が生じるのではない。「存在」「実在」でさえ、いかなる場合に「存在している」「実在している」と判断されるのか、いかなる経験をもって「存在している」「実在している」と言われているのか、そこから説明する必要があるのだ。

ヒュームは次のように述べている。

存在の観念は、存在しているとわれわれが思いいだくものの観念とまさしく同じものである。なにかをただ反省するのと、それを存在するものとして反省するのとは少しも違わないのである。存在の観念は、なにかある対象の観念と結びつけられても、この観念になにも付け加えはしない。(ヒューム『人性論』土岐邦夫・小西嘉四郎訳、中央公論社、37ページ)


・・・これは、言い換えれば「存在」という「観念=心像」(実際ヒュームも『人性論』の最初でそう定義している)などどこにもない、ということなのである(ヒューム自身はこのあたり無自覚ではあるが)。

「リンゴ」を心に思い浮かべる場合も、「存在しているリンゴ」を思い抱く場合も、結局は「リンゴ」という言葉が指し示すイメージを思い描いていることに変わりはないのである。

そして、これはヒュームの言う「印象」においても同じことなのだ。そこに見えているのは「リンゴ」であり、そこに見えているものは「存在している、実在しているリンゴ」なのである。「存在」という言葉を加えたとしても、私たちの「知覚」に何も加えはしない。

要するに、「存在そのもの」の経験などどこにもない、ということなのだ。ではいったいどのような時「存在している」「実在している」と言われるのか?

・・・それは私たちの日常生活を振り返ってみれば良いだけである。私たちが想像やら錯覚と本当にそこにあるものとを見分けるにはどうるすのか?・・・実際に触れることができるとか、香りがするとか、持ってみたら重みがあるとか、食べてみるとか、そういう当たり前のことである。もちろんそれは絶対的なものではない。それでさえ錯覚・間違いであるという可能性を捨て去ることはできないのではあるが。

つまり「実在そのもの」「存在そのもの」の経験はないが、視覚や触感やらその他様々な知覚経験(あるいは知覚対象によっては全く別の要因があるかもしれない)は実際にある。そしてそれらによって「実在している」「存在している」と判断されている、ということなのだ。

ここまで説明すればお分かりいただけると思うのであるが・・・

選言説と概念説の両者はそれぞれ、「実在から経験へ」および「経験から信念へ」という二つの道筋を整備し、それらを 正当化の序列のなかに正しく位置づけるために相補的に機能すると捉えられる。(小口氏、1ページ)


・・・における「実在から経験へ」という道筋そのものも、やはり否定されてしまうのだ。

マクダウエルの議論はその前提からして無効なのだ。

「実在」は、経験によって(触れるとか味があるとか香りがするとか)示されるものなのに、経験の前提として「実在」をまず仮定してしまっているのだ。


実在⇒知覚として説明するのは、あくまで脳科学をはじめとする脳や体の仕組み・働きの因果的解明であって、哲学としてそれら科学がいかに成立しているかを説明するのであれば、「実在⇒経験」という道筋は明らかに的外れであるといわざるをえないのだ。

小口氏の見解は、科学と哲学とがごっちゃになってしまっているように感じられるのだが・・・
(2018.8.22[水])
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経験とはいったい何なのか?


(一応「ハイブリッドな経験観」と関連はあります)

小口峰樹著「知覚経験の選言説と概念説」『日本科学哲学会第40回大会』2007年(発表原稿)

・・・はマクダウェルの見解を「概念説を介した選言説」として解釈しその擁護を試みるものだそうだ。

私としては、これら議論の前提そのものから問うてみたい。これら議論がそもそも有効なものなのだろうか?

マクダウエルは、

「知覚経験がもつ内容は概念能力によって構造化されている」と主張し、知覚内容に関する「概念説」を提示している”(小口氏、1ページ)


一方、

概念説と対立する「非概念説(nonconceptualism)」は、知覚内容を非概念的なものであると主張する。(小口氏、1ページ)


・・・そもそもが、知覚は知覚であって、知覚が「概念的」とか「非概念的」とかわけがわからない。どうしてこんなおかしな話になってしまっているのか?

結論から言ってしまえば、

・実際の経験を吟味するのではなく、恣意的に経験の範囲を狭めたり広げたりしている
・「信念」「概念」「実在」という用語を用いることで、実際の具体的経験から乖離した架空的な分析、想定概念の間の辻褄合わせゲームになってしまっている


・・・要するに、議論の前提から疑う必要があるのだ。「経験」について分析しようとしているにもかかわらず、実際に現れている具体的経験について何ら吟味していないのである。

選言説と概念説の両者はそれぞれ、「実在から経験へ」および「経験から信念へ」という二つの道筋を整備し、それらを 正当化の序列のなかに正しく位置づけるために相補的に機能すると捉えられる。 (小口氏、1ページ)


・・・そもそもが、「実在」とは何なのか?「信念」とは何なのだろうか? 「概念」とはいったい何なのだろうか? さらには「経験」とはいったい何なのだろうか?

「信念」とは言うものの、それはいったい何なのだろうか?
そこに見えるものがあって「リンゴだ」と思う。ただそれだけである。あるいはそれは何だと問われ「リンゴだ」と答える。ただそれだけのことである。

何度聞かれても「リンゴだ」と思う。その言語表現の正誤を覆す経験はまだ現れていない。もちろん将来その見解が覆される可能性がないとは言えない。しかしその時点において「リンゴだ」という言語表現は「正しい」と思われているのである。その見解が「見間違い」「勘違い」であったというのが分かるのは(あるいは間違いではないかと疑われるのは)、あくまで新たな経験として、そのものを「リンゴに精巧にまねて作られたプラスチックの細工物」だった、という判断(これも言語表現)が現れた時であるにすぎない。

結局のところ真理とはそういうものである。「真理」とは何か、それさえも「経験」として説明するしか方法がないのである。


では、そこで「信念」とはいったい何なのであろうか? ・・・「信念そのもの」というものは、実のところどこにも見つけることはできないのである。そのものを見て「リンゴだ」と思ったり話したり書いたりした具体的経験の積み重ねはある。そういった積み重ね・繰り返しがその言語表現が「正しい」という「自信」をもたらすと言う人がいるかもしれない。

では「自信」とは何であろうか? これも一種の情動的感覚であるとも思われる。しかし具体的にどのような感覚であるかと聞かれても、うまく答えられない気がする。単に不安感やら違和感のようなものがない状態かもしれないし、安心感のようなものなのかもしれない。あるいはもっと別な感覚なのかもしれない。あるいはシチュエーションにより全く別の感覚であるにもかかわらず「自信がある」と一括して判断されているのかもしれない。そもそもが「自信そのもの」という情動的感覚というものがあるのかさえ疑わしい(「自信」という言葉はあるが)。

結局のところ、このように「信念」というのは何かと問うとき、具体的な「経験」としてそれがいかなるものなのか・・・として説明するしかないのである。そして「信念そのもの」がいかなるものなのか、非常に不明瞭にしか答えることができない。「信念そのもの」など実際どこにあるのか見つけることさえ出来ないからである。

ただ、常に明らかなのは、知覚的経験と言語表現の事実なのである。

つまり小口氏の言われる「経験から信念へ」という道筋そのものが否定されるわけである。
そして、同時にそれは「概念」の否定でもある。そこあるのは知覚経験と言語表現(としての経験)だけだからである。

マクダウエルによれば、われわれの信念体系は、経験との間に正当化根拠づけといった理由付与関係 (reason-giving relation)を結ぶことにより、外的な合理的制約(external rational constraint)を獲得しなければならない。しかし、仮に経験が信念とは異なり概念的に構造化されていないとすれば、それはいかにして信念に対する単なる「因果的」制約を越えた「合理的」制約を課すことができるのだろうか。この問題に対し、マクダウエルは経験概念を次のように捉え返すことで信念に対する合理的制約の可能性を保証しようとする。すなわち、知覚経験がもつ内容は、単に受容性(receptivity)の働きであるところの感性的直観によって獲得されるだけではなく、同時に自発性(spontaneity)の働きであるところの概念能力によって構造化されている。つまり、知覚経験のもつ内容は「概念的」なのである。(小口氏、2ページ)


・・・つまり、マクダウエルの議論は、「信念」というものを「経験」から遊離させ、あたかも実在する何物かであるように見せかけ(これを私は「概念の実体化の錯誤」と呼んでいる)、経験が信念をもたらすために必要な「原因」「要因」を探そうとしている、”因果推論的辻褄合わせ”をしようとしているのである。

具体的経験の事実から乖離した、あるいは恣意的に想定された「経験」というものがある、一種の「架空世界」、ファンタジーの世界における要素間の因果関係構築をしようとしているのである。そのためその因果推論にも根拠がない。

私は、「信念」それ自体も「経験」としていかなるものなのか説明するしかない、と述べているが、そこの違いは分かっていただけるであろうか・・・?

また、知覚経験が「概念的」なのではなく、知覚および言語表現さえも経験である、ということなのだ。一方「概念」というものなどどこにも経験として見出すことなどできない。同様に、「構造」「構造化」という経験など、いったいどこに見出すことができるであろうか?

これも経験からの因果推論であるにすぎない。具体的経験としては現れてはいないものなのである。(マクダウエルは因果関係とは何であるか、その議論もすっとばしている。あるいは因果関係はアプリオリであると決めつけてそれで良いとしているだけかもしれない。)

思考における概念能力は自由で能動的な(active)自発性の働きとして特徴づけられる。他方、受容性の働きによって生じる知覚経験は受動的(passive)である。「経験において人は自身が内容を課されていることに気づく」のであり、その内容の最終的な定権はわれわれの側ではなく世界の側へと委ねられている。こうした意味において、知覚はミニマルな受動性を絶えずもち続けている。マクダウエルによれば、思考における概念の働きと経験における概念の働きとは、それが能動的な「行使(exercise)」であるか受動的な「現実化 (actualization)」であるかという違いはあれ、基本的には同種のものである。 (小口氏、2ページ)


・・・能動的と受動的が”基本的に同種”というのは詭弁でしかない。これは経験とは何かを取り違えているだけなのだ。

言葉のトリックと恣意的な因果関係構築
http://miya.aki.gs/mblog/bn2018_07.html#20180702

でも説明したが、

目の前のものを「リンゴ」とは思えても「バナナ」とは思えない。これが言葉と経験との関係である(同様に判断がつきかねてしまうというのも具体的経験である)。このどこに「自由」があるだろうか?

そもそもが、経験に「能動的」とか「受動的」とか区別しようとする方がおかしいのだ。経験とはただ現れてくるもの。それは「世界の側」なのではない。それはあくまで事後的な判断なのである。
(2018.8.17[金])
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根拠を問うているものが既に前提されている


村井忠康著「知覚と概念―セラーズ・マクダウェル・「描写」―」『科学哲学』45(2)、2012年、99〜114ページ

・・・を、他の論文を読んだ後にもう一度読んでみた。いったい分析哲学や科学哲学の"世界"はどうなっているのか? 「概念」「思考」「信念」や「経験」そういった用語そのものから問い直す必要があるのでは、と思う。「世界」と何か、「心」とは何か、そういった議論もほったらかしに、さらには「真理」とは何か、という議論もすっとばされてしまっている(そのために明証性と事実把握の客観性とが混同されてしまっている)。

とりあえず今回指摘したいのは、セラーズやマクダウェルの議論は、

世界の中に、私や物があり、私が物を見ることで意識上(あるいは心の中)に知覚として現れる

・・・という一般的世界観を前提とした上で、

私の意識や心に現れる知覚⇒世界や物の存在といった事実認識の「正しさ」

・・・という道筋が成立するための”辻褄合わせ”が成り立つのか、という考察なのである。

「世界」やら物の「存在」が実際にはどのようにして知られているか、あるいは根拠づけられるか、そういった具体的考察は全く度外視された上で、私の心と物の存在との間の疑似論理的辻褄合わせゲームに終始しているのである。

以下の文章がそのことをよく示している。

 しかし,ここからさらにセラーズは次のような踏み込んだ主張をする.知覚経験における「直示句的」思考は二つの対象をもっている.ひとつは,経験とは独立に存在する眼前の赤い立方体である.(村井氏、105ページ)


・・・世界や物の存在の(「正しい認識」の)根拠を示そうとしているのに、まずはそれらの存在を前提とした上で、意識や心に現れる(とりあえずここではそう説明しておく)経験というものを恣意的に狭めたり広めたりして、辻褄合わせしようとしているのだ。

経験とは具体的に現れているものである。それは恣意的に範囲を決められるものではない。

知覚経験における「直示句的」思考は二つの対象をもっている.ひとつは,経験とは独立に存在する眼前の赤い立方体である.もうひとつは,当の経験の一部をなす複合的な感覚的状態,つまりイメージモデルである.眼前の赤い立方体の非命題的知覚とは,赤い立方体のイメージモデルをこの赤い立方体としてみなすことである,と彼は主張するのである.これは哲学的反省のすえに判明することであり,通常の経験においてイメージモデルがイメージモデルとして気づかれることはないとはされる.(村井氏、105ページ)


・・・ちょっと待ってほしい。「イメージモデルがイメージモデルとして気づかれることはない」のである。つまり具体的には経験されていない、ということなのだ。上記「哲学的反省」とは要するに”因果推論”なのである。”そういうものがあるはずだ”・”そういうものがあるからこそ物の存在を把握できるのだ”というセラーズの”推測”にすぎないのである。

この「イメージモデル」は辻褄合わせのための道具にすぎない、ということだ。


(次回は「ハイブリッドな」経験観について検討してみたい)
2018.8.12[日]
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「無常」を疑う必要があるのでは


禅的哲学
https://blog.goo.ne.jp/gorian21



仏教的世界観 無常と空 その1
https://blog.goo.ne.jp/gorian21/e/0c69f24792881b524b00be077b4b00c1

・・・という記事の感想なのだが、私は別に仏教がどうとか言うつもりはなく、仏教について議論することには関心もない。あくまで御哲坊さん自身の哲学的見解について、その問題点を指摘するだけである。

・・・一般的に経験は常に変化するもの、流れゆくもの、という”思いこみ”があるが、具体的経験としては、実際のところは変化することもあるし、変化しないこともある。壁をじっと見ているとき、そこに「変化」はあるだろうか? もちろん経験は見えているものだけではないから、注意が他所に向けば(情動やら連想やら香りやら音やら)変化していると感じるであろう。しかしただじっと壁を見ている分にそこに「変化」があるとは言えないと思うのだ。「ありのまま」というのであれば、変化を感じていないのであれば、変化していない、ということで良いのではなかろうか。

私という人間も一瞬の滞りもなく変化し続けている。外部から空気、水、栄養を取り入れ、代謝しながら排泄を続けている。(御哲坊氏)


・・・と述べられているが、例えば一人の人間がそこにいる、と思ったのであればそれは「人間」なのであって、「外部から空気、水、栄養を取り入れ、代謝しながら排泄を続けている」とは、事後的な因果分析、要するに”思慮分別”に他ならない。

私たちは「そこに渦がある」と言うが、実は渦の実体というものはそこにはない。単に水がまわっているだけのことである。その水も同じ水ではなく絶えず入れ替わっている。(御哲坊氏)


・・・というのも同様である。「ありのまま」に受け止めるのであれば、それは「渦」なのであって、「その水も同じ水ではなく絶えず入れ替わっている」というのは思慮分別であるにすぎない。(だから間違いだと言っているのではないが)

純粋経験は必ずしも単一なる感覚とはかぎらぬ。心理学者のいうような厳密なる意味の単一感覚とは、学問上分析の結果として仮想した者であって、事実上に直接なる具体的経験ではない のである。(西田『善の研究』岩波文庫、21ページ)


・・・つまり純粋経験は分析によって抽出された”要素”なのではなく、あくまで「事実上に直接なる具体的経験」なのだ。

また、言語表現を含めたこれらの経験を「ありのまま」に受け取る、ということは、「イデア」を認めることとは違う。同一性を認めることはイデアを認めることと違う、そこは理解していただけるであろうか・・・?

あくまで言語と経験とが結びついた事実のみを認めるのであって、具体的経験として現れない「イデア」という存在は認めない、ということなのである。

「同一性」に関しては、アカデミックな哲学の世界でもこのような”思いこみ”が一般的な見解になっている印象だ。「同一性」や「変化しないもの」は疑うのに、「差異」や「変化」は疑わない。(デリダの「差延」に関する論文を読んでいて、このことを強く感じた)いったい何を根拠にそう決めつけているのだろうか?

ある経験とある経験が「同じ」ものであるという判断について、「なぜ同じなのか」という”理由”は、究極的には論理で説明できないところに行き着く。同様に、「違う」ものであるという判断における”理由”も同様に論理で説明できないところに行き着くのである。

また、経験が常に変化するという見解は、”時間の流れ”という思い込みをエポケーできていないからこそ生じるものであると思われる。

具体的経験の事実としては、時間など流れていないのである。あくまで経験が変化したりしなかったりしているだけなのである。


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・・・上記の説明を念頭に、以下の記事についても問題点を指摘してみる。

仏教的世界観 無常と空 その4
https://blog.goo.ne.jp/gorian21/e/e1eaf4665b9b72e86f46bbd7771d1496

自然は流動しているから常に多様な差異を生み続けている。しかも、微細に見れば同じことの繰り返しなどそこにはないはずである。(御哲坊氏)


・・・「常に多様な差異を生み続けている」という説明に関しては無条件に受け入れているのに、「繰り返し」に関しては否定してしまっている。「繰り返しを生み続けている」という説明も同様に説得力があると思うのだが。また朝が来る。太陽はまた昇る。どの人も死んでしまう。「繰り返しなどそこにはない」と言いきれる根拠はいったい何なのか?

ここで「差異」という言葉を使用してしまったが、その言葉は本来「同一」の観念があってこそ成り立つ概念である。(御哲坊氏)


・・・これは一種の因果関係構築である。因果関係は経験に先立つものではない。こういった見解は広く認められるものではあるが、哲学的思考における重大な誤謬でもあるのだ。これについては、拙著、

哲学的時間論における二つの誤謬、および「自己出産モデル」 の意義
http://miya.aki.gs/miya/miya_report17.pdf

・・・の”「動かないものがあるから動くものが分かる」という誤謬”(7ページ〜)で詳細に説明している。

さらに、

そのままだと世界はカオスのままであり、人間は生きていくことができない。(御哲坊氏)


・・・これこそが「ありのまま」からの逸脱であり、具体的経験の事実から離れ”モデル的”思考に陥っているものである。経験が「カオス」であるという事実はいったいどこにあるのだろうか? 目の前にきれいなものがあり「きれいな花だ」と思ってしまう、これこそが「ありのまま」の事実なのである。もちろん言語を伴わない経験もあるし、言語そのものも経験である。それら具体的経験が「カオス」であるという根拠はいったい何なのであろうか?

カオスの中からなんとか似たパターンを読み取り、ゲシュタルトを構成する。(御哲坊氏)


・・・これも事後的因果把握、要するに”思慮分別”である。「カオス」というものも一種の”モデル思考”の賜物であるのだ。

「概念が恣意的」(御哲坊氏)という考え方は、それこそ”恣意的な”ポストモダン的思想に行き着くだけだと思う。

目の前のものを見て「リンゴだ」と思ってしまう、それを「スイカ」だとは思えない。そこに「恣意性」などどこにもないのである。



<関連記事>

言葉のトリックと恣意的な因果関係構築
http://miya.aki.gs/mblog/bn2018_07.html#20180702
(2018.8.9[木])
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推論主義の問題点・・・言葉の意味と事実把握の客観性の問題の混同


島村修平著「推論主義の独自性と意義―意味理解と外在主義の観点から―」『科学哲学』48(2)、2015年、93〜109ページ(pdfファイルでは1〜17ページとなっているので、ここではこちらのページ数に従います)

・・・を読んだ。すっきりと理解できたとは言い難いが、議論の前提としていくつかの誤解があることは感じ取れた。

具体的に、私が感じた問題点を挙げてみる。


1.ブランダムの理論の出発点となっている「意味の使用説」の問題点



・・・ここで具体的に説明しています。


2.過去に経験したもの、学んだものから導かれる「経験則」とアプリオリとの混同



私たちは一方で,発話者はその発話によって自分が意味したことをアプリオリに知っているという直観 ― アプリオリな意味理解の直観と呼ぼう ― を持っている.(島村氏、13ページ)


・・・別にあるものを見て「リンゴだ」と思ったからといって、それはただそれだけの経験であって、上記のような”直観”が常についてまわるわけではない。

しかし、どうして「リンゴだ」と言語表現できたのだろう、なぜ「リンゴだ」と分かったのだろう、という「理由」を”因果推論”してみれば、過去に「リンゴ」という言葉を誰かから教えてもらったとか、「リンゴ」とスーパーで示されているものを何度も見てきたとか、図鑑やら本で「リンゴ」に関係する写真やら記述を読んだことがあるとか、そういうことを連想することはできよう。あるいは具体的出来事として思い出せなくても、どこかで「リンゴ」というものについて教えてもらったか、たまたま何かの出来事によって知ったのだろうと推測することもできよう。

あるいは「リンゴ」というものは様々なメディアで紹介されている。リンゴにもさまざまな種類があって、それぞれ少しづつ形状やら色合いやらが異なっていること、青リンゴというものもあること、そういうったことを学んで知っている。

そういった因果推論を「アプリオリ」な「直観」と言うのだろうか?


3.事実把握の客観性と言葉の意味とは違う:言葉の意味は客観性がなくても成立する



私たちは一方で,発話者はその発話によって自分が意味したことをアプリオリに知っているという直観 ― アプリオリな意味理解の直観と呼ぼう ― を持っている.しかし他方で,平叙文の意味は,発話者を取り巻いてきた外在的環境に依存して決まるという主張 ― 内容外在主 義 ― は,現在多くの哲学者に受け入れられている.そうした環境的要因の内には話者がアプリオリには知りえないものも含まれている.このため,これら二つの論点の間には,少なくとも一見したところ緊張関係がある.実際,これまで様々な論者が,表象主義という暗黙の前提の下で,これら二つの論点の両立させる困難を指摘してきた.(島村氏、13ページ)


・・・要するに、主観的事実把握と、事実把握の客観性の問題なのではないか? そして、島村氏、ブランダムともに、「客観的」に「真」であると認められて初めて「意味」というものが成立すると勘違いしているのではなかろうか。

現象主義は,共同体の成員の評価傾向を基に使用の正しさを説明するある種の傾向性説と言えるだろう.(島村氏、11ページ)


・・・という説明からも、事実認識の客観性(客観的正しさ)の問題を、言葉の意味の問題と取り違えている様子がうかがえる。

結論から言えば、(本サイトで常に強調しているように)言葉の意味とは言葉に対応する経験(五感やら心像やら情動的感覚やらの具体的経験)なのであって、それは「表象」でも「概念」でもない。言葉と経験とが繋がったこと、とある経験を言語表現した事実は疑いようのない明証性を持つ事実なのである。

例えば、Aさんがある痛みを感じたとき、それに「Xの痛み」と名前を付けたとする。Aさんにとって「Xの痛み」とはその時の痛みなのである。別のときに似たような痛みを感じて、「またXの痛みだ」と思ったとすれば、その痛みはやはり「Xの痛み」なのである。

要するに経験に名前をつけてしまえば良いだけ、言葉の意味とはその言葉に対応する経験なのである。そしてそれは他者の介在を必要としない

その痛みについて、他者と語り合ったとする。例えば病院に行ってお医者さんに対し、この場所が痛いとか、どういう時に痛いのか、と具体的に話しているうちに、それがストレス性の胃痛だとか教えてもらえたりもする。しかしそれはAさんにとってやはり「Xの痛み」でもあるのだ。

あるいは、Aさんはある生き物を蝶と思っていたが、Bさんからそれは蛾の仲間だよ、と教えてもらったとする。Bさんの言うことが正しいのか図鑑で調べてみたらやはり蛾だった・・・そうであれば、Aさんはその生き物を蛾であると、それ以降は判断するであろう。

特定の事物=蝶、という言葉と経験との関係が、特定の事物=蛾、と修正されたわけである。ただそれが修正され、より「客観的」な言葉と経験との関係が構築されただけであって、最初の認識が正しかろうが間違っていようが、言葉と経験との関係が構築されたことには変わりないのである。

さらに別の状況を考えてみよう。ある有名な画家Cの絵があり、そのタイトルが「XY」であったとする。Aさんはその絵を見ると気分が高揚すると感じているとする。一方Bさんはその絵を見ると気持ちが悪くなってしまう。そのとき、AさんBさん双方にとってその絵は「画家C作のXYというタイトルの作品」という認識は”客観的”なものであるが、Aさんにとっては「気持ちを高揚させるもの」という意味合いを独自に持ち、Bさんにとっては「気持ちが悪くなるもの」という意味合いを持つ。それらは客観性を持たないが、それぞれの人にとっての「画家C作のXYというタイトルの作品」という言葉に対応する「(機能的)意味」であることには変わりないのである。

つまり、まずは言葉と具体的経験とが繋がった、具体的経験を言葉で呼んだ、その事実がまずはあって、言葉と経験との関係の客観性は、その後の問題なのだ。


・・・結局のところ、推論主義が何らかの学問的意義を有する可能性があるとすれば、それは事実認識の客観性はいかにしてもたらされるか、というプロセスの説明ではなかろうか。しかし「意味」についての誤解を放置したままでは正確な回答に到ることはないと思われるが。
(2018.8.3[金])

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