小口峰樹著「知覚は矛盾を許容するか?」『Citation Contemporary and Applied Philosophy (2014)』5、1016〜1032ページ
・・・は、概念主義の立場から非概念主義へいかに反論できるか、という内容の論文である。
知覚の哲学の分野においては、1990年代以降、「知覚経験はどのような種類の内容を有しているのか」という問いをめぐって「概念主義(conceptualism)」と「非概念主義(nonconceptualism)」の対立が主要な争点のひとつを形成している。非概念主義者によれば、信念や判断が概念によって構造化された内容を備えている一方で、知覚経験はそれらとは異なる種類の内容、すなわち非概念的内容を備えている。(小口氏、1016〜1017ページ)
クレインは非概念主義の論拠として「知覚の改訂不可能性」(Crane 1992)および「知覚の矛盾許容性」(Crane 1988; reprinted in 2003)というふたつの特徴を挙げている。クレインによれば、知覚経験は信念とは異なり、 第一に、それに反する証拠が示されたとしても改訂されることはなく、第二に、あからさまに矛盾した内容であってもそれを排除することなく許容しうる。知覚経験がもつこれらの特徴は、知覚が信念とは異なる内容をもつことを示唆するものである。 本論では、これらのうち後者の知覚の矛盾許容性に焦点を当て、対立する概念主義の側からどのような応答が可能であるかを検討する。(小口氏、1017ページ) ・・・私が何度も述べていることであるが、これら概念主義・非概念主義との論争になっている前提、あるいは用語というものが適切であるか、そこから検証していく必要があるのだ。
1.「信念」「概念」という用語の問題
「信念」という言葉が問題をややこしくしている。実際のところ、
単なる言葉と知覚との繋がりという経験
・・・でしかないものが、
知覚経験⇒信念・判断
・・・という因果関係にすり替えられてしまっているのだ。そして「信念」というものは何なのか・・・と問われても、それが何か明確に示すことができない、明らかなのはやはり言語表現と知覚との繋がりでしかないのである。
たとえば、明けの明星が宵の明星と同一であることを知らない人物は、「火星は明けの明星であり、かつ、宵の明星ではない」という内容の信念をもつことができる。それゆえ、〈明けの明星〉と〈宵の明星〉はたとえ指示対象が同一であるとしても異なる概念である。通常、信念を構成する内容は概念的なものであり、この認知的意義の原理が適用可能であると考えられている。(小口氏、1019ページ) ・・・”「火星は明けの明星であり、かつ、宵の明星ではない」という内容の信念”とは結局のところ「火星は明けの明星であり、かつ、宵の明星ではない」という言語表現である。その言語表現が「正しい」「間違い」とされるのは、「火星」「明けの明星」「宵の明星」という言葉とそれが指し示す対象物との関係で示される。
小口氏は、「信念を構成する内容は概念的なもの」(小口氏、1019ページ)とされているが、具体的に検証してみれば、結局のところ、言語表現とそれに対応する対象物(突き詰めれば知覚経験あるいは心像)との繋がりでしかないのである。言い換えれば、「概念」とは言語表現とその「意味」としての対象物(知覚経験やら心像やら)のセットのことを表わしているともいえる。
つまり、知覚経験が「概念的」というのは・・・「判断」「信念」(具体的には言語表現)ではない知覚経験が「概念的」というのは、おかしな話なのである。言語表現を除いた経験が言語表現を含んでいる、というのだから。
知覚経験が、信念・判断をもたらす、というのであれば、例えば既に「ひまわり」という花を図鑑やらテレビで見て知っている、「ひまわり」という言葉が指し示す写真・映像・(記憶としての)心像のセットを知識として持っている、その時、そこに見えている花は何なのか、という時、結局のところ、写真やら映像やら心像やらと、そこに見えているものとの「同一性」の検証、ということになろう。
認知的意義の原理……内容 c が概念的であるならば、c の構成要素である F と G は、ある人物がそ れらが述定されうる任意の事物(ないしは事象)a について「a は F であり、かつ、a は G でない」という 内容の志向的状態を持ちうるとき、異なる概念である。 (小口氏、1019ページ) ・・・というとき、FやGは言語として示されるではあろうが、結局のところ、FやGという言葉に対応する何がしかの経験(心像やらその他の知覚やら)との比較として検証されるものである。そしてそれらの差異や同一性の根拠は究極的には論理で説明できないところに行き着く。ただ「違う」と思ったから違う、「同じ」と思ったから同じ、そしてその理由は事後的に因果的に分析はできるが、やはり究極的に論理で説明できない場所に行き着くのである。それについては、「理由」とは因果関係における「原因」のことでも述べた。
ただ、いずれにせよそこで比較されるのは「概念」ではなく知覚やら心像なのである。
2.新たな経験により、それまでの「経験則」に変更が加えられるだけ
滝の錯視は「運動残効(motion aftereffect)」と呼ばれる錯視の一種である。流れ落ちる滝をしばらく眺めた後に、静止した岩へ素早く視線を向け変えると、その静止しているはずの岩は滝の動きとは逆方向に動いていくように、つまり上昇していくように見える。クレインは、このとき岩は静止していると同時に運動しているように見えると主張する。つまり、滝の錯視には矛盾した内容が含まれているのである。 (小口氏、1018ページ) ・・・これは事実の”曲解”とでも言おうか・・・「矛盾」とは全く別の話である。そもそもなぜ「錯視」であると分かるのであろうか?
要するに、(特定の条件なしに)「岩が勝手に動くことはない」という経験則を知っているから、動いているはずはない、それは錯覚だ、と理解できるのではないか?
「動いていないものが動く様に見えるはずがない」と思っていたところ、実際には岩が動いて見えた。それまでの経験則が新たな経験により覆されたのである。つまりその経験によって「人間は滝を見たあとに錯視を起こす可能性がある」という経験則(経験の因果的連鎖)が加えられたのだ。
場合によっては「滝を見たあとに岩を見たら岩が動くことがある」という経験則が導かれる可能性もある。ただ、その見解も、その岩を様々な視点から何度も観察していけば「岩が動くことはない」と判断され、「岩が動くように見えただけだ」という結論に至るではあろうが。(もちろん、それらの検証なしに、岩が動くと思いこむ場合もあろう)
そもそもが「矛盾」とは、「四角い三角」のように言語表現されたものが経験として(心像としても)現れることがないもののことである。知覚経験そのものが”矛盾を許容”するということはありえない。
クレインや小口氏が扱われている事例は、単に新たな経験がそれまでの経験則を覆す事例であるにすぎない。それによって「真理」というものが改められ新しい理論となっていく。そもそも科学というものもそうではないか?
自己欺瞞についての典型的な解釈によれば、 自己欺瞞に陥っている主体は「aはFである」と「aはFでない」という相矛盾する信念を同時に有している。 たとえば、そうした主体は、「妻は浮気をしている」という命題が真であることを正当化する証拠を有しており、それゆえそう信じていながら、同時に、その命題が偽であることを強く願うがゆえに、自らを欺いて「妻 は浮気をしていない」という信念を形成する。通常の推論能力をもつ主体の場合、ここから「妻は浮気をしており、かつ、浮気をしていない」という矛盾した内容をもつ信念を形成するはずである。自己欺瞞における問題のひとつは、通常の合理的な能力をもつ主体が、「a は F である」と「a は F でない」という互いに矛盾した信念をもつことはいかにして可能かというものである。(小口氏、1021ページ) ・・・これももう少し厳密に考えた方が良いのではなかろうか。いろいろな風に捉えることができる。
・判断を迷っている、あるいは判断がつきかねる場合。 ・上記の判断は因果推論を伴うものである。因果推論も絶対的なものではない。新たな要因が加わることで別の事実が現れることもある。特定の要因が揃っていたとしても、全く感知しなかった別の要因によって結論が変化する可能性もある。 ・「浮気をしていない」と思いこんでいたのであれば、それは実際にそう思っていたことである。事後的に、他者から「本当は浮気していると思っていたのではないか」と問われ、はっとして「本当はそうだったのかもしれない」と本人なりに気付いたとする。それら一連の経験を因果的につなげることで、「自己欺瞞」していたと推論した。要するに「自己欺瞞」とは事後的・因果的に導かれる分析結果なのである。
最後になるが、
滝の錯視において矛盾したものとみなされている運動情報と位置情報は、実際には互いに対する含意をもつことなく別々の特徴マップで処理されており、それゆえ知覚経験の水準では矛 盾は生じていないことになる。滝の錯視が矛盾した内容を含まないならば、知覚経験には矛盾非許容性という特徴が成り立たないというクレインの議論は失敗していることになる。加えて、両眼視野闘争という現象は、同一の特徴マップ内で矛盾した内容が処理される場合には、知覚システムはむしろ矛盾を回避するように働くと解釈可能な事例であり、これは知覚内容が信念と同様に矛盾非許容的であるということを示唆している。 (小口氏、1029ページ) ・・・そもそもが「知覚経験の水準」に「矛盾」があるとかないとか考えるのがナンセンスなのだ。
上記の小口氏の説明は、被験者がそれが錯覚体系であることを理解できていた、という事実を、脳科学から説明できた・追認できた、ということ以上のことは説明していないのではないか?
哲学は、細胞の働きから説明するものではない(それは心理主義の一種)。その前に、これは「細胞」だとか、これは「脳」だとか、そういった把握ができること、データとは何か、様々なデータを関連づける「因果関係」とは何か(「因果関係」と関連して「働き」とは何かという問題もある)、それらの事実把握がまず先にあって、それを基盤に細胞の働きというものが明らかになる、科学的研究の根拠が明確になるのだ。
(2018.8.27[月])
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